「中国4千年の歴史」 というフレーズはよく知られているが、実際に中国史の始まりを定める時は、紀元前1600年頃に成立した殷(いん)王朝からすることが多い。 ここでは春秋、戦国、楚漢戦争(そかんせんそう)、三国と、各時代を代表する英雄を時代ことに英雄たちの勇ましいくロマンティックな生き様をご紹介していきます。
時代 秦~三国時代 生没年 前241~前180年 国 漢
地位 皇太后 別名 玄徳、呂雉、呂太后、呂妃など
※ 漢王朝隆盛の基礎を築いた“悪女”
楚国に生まれた呂雉(りょち){のちの呂后}、有力者の娘として育ち、父の紹介で劉邦(りゅうほう)のもとに嫁いだ。 ある日、呂雉はふたりの子どもと草刈りをしていると、ある老父が飲み物を所望し、言われた通りに飲み物や食べ物を差し出しす。
一息つくと老父がは呂雉に対し「天下を取る顏をしている。 ふたりの子どもも同じ事」 と語り、立ち去った。 その数年後、項羽(こうう)を破り、楚漢戦争(そかんせんそう)に勝利した夫、劉邦は漢王朝を築く。 皇太后となった呂雉は、老父の言う通り天下を取ったのだった。
呂后は唐の武則天(ぶそくてん)、清の西太后(せいたいこう)と並ぶ3大悪女として知られている。 劉邦が寵愛していた夫人.戚(せき)姫は、自らが産んだ子、如意を皇太子にするよう懇願。 その兆候に気づいた呂后は皇太子代えを阻止し、劉邦の死後、自らの子である恵が帝位に就くと、後見人として太后となった。
そして彼女は如意を毒殺。 さらに戚姫の手足を斬り、目をえぐり、耳を焼き、毒を煽(あお)らせしゃべらせないようにすると、厠(かわや)に放り込んだ。
そんな戚姫の刑態を“人豚” と名づけ、恵帝に「厠に面白い動物がいる」 と案内。 その惨状を見せると、恵帝は精神を病み、早世してしまった。
恵帝の医事である劉恭(りゅうきょう){前少帝}が即位したあとも呂后の専制は続き、劉邦の愛人やその庶子を次々と殺害。 呂一族を政治の中枢に配していく。 ついには、劉恭を幽閉ののち殺害し、代わりに弟である劉義(後少帝)を立てる。これには劉邦の元勲.陳平や周勃らの反感を買い、呂后の死後、呂一族は滅ぼされた。
司馬遷(しばせん)は、「史記」 の中で呂后のことを「女性でありながら政治に精通し、安泰な天下を保ち、庶民の衣食は豊かになっていた」 と評している。
現在では悪女として知られる彼女は、漢王朝の隆盛の基盤を築いた人物としての側面も持っているのだ。
左から呂后(呂雉)、武則天后(則天武)、西太后、この3人
(ゼロからわかる英雄伝説 古代中国編参照)
※ 中国三大悪女の参考ブログです(^^; 勇気のある方だけご覧ください
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追記、今回は中国三大悪女の一人呂后(りょこう)を紹介しましたが、ここまでやる 女性の執念の凄さと残酷さ他の二人も凄いんですが、呂后が厠(かわや)に放り込んだとは もう何もいえねぇ~
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