法華経の教えから 第二十二章 嘱累品 その3(人に施すには) | 釈尊と共に生きる、西洲のブログです!

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法華経は釈尊の肉声の教えの経典です。あらゆる経典の中で、法華経は、別の名を
「最上王経」とも呼ばれ諸経の王でもあります。女人成仏をはじめどんな衆生も
生きるもの全てを救おうとする仏陀の方便の力は、法華経のすばらしさです。

仏の智慧を与えられる人に。



◎人に施すには .............. 慈悲心による(その1)

仏が菩薩たちの頭を撫でて、なぜこのようなことを頼むのか。自分が苦心して得たものでも、大いなる慈悲心があるために、人々にそれを与えようとしたのである。仏はもの惜しみしないばかりではない。畏(おそ)れるものがないのである。「畏れる所なし」 というのは、どんな人にも同じ教えを説くことができるからである。相手によって言うことを変えないからである。

(おそ)れる所なし」 ということは、世の中に受け入れられなくても、意に介さないことでもある。世の中の風潮にあわせて仏教の教えを曲げたり時流に乗る必要はまったくない。世間や時流に対して畏れる必要がまったくないことをいうのである。それで仏が人々に与えるものとは何か。それは仏の智慧如来の智慧自然(じねん)の智慧三つである。この三つはまったく同じものであるが、そのはたらき方によって三つに仮りに分けたのである。仏の智慧は世の中の悩み苦しんでいる人々を救うはたらきをする。

「浄土論」(じょうどろん)に、「仏慧明浄(ぶつえみょうじょう)の日は世の闇(やみ)を除(のぞ)く」 という言葉があるが、仏の智慧が明らかで浄(きよ)らかになれば、それは世の中の暗闇を照らし出し、一切の闇を除きさるという。仏の智慧とはまさしく光明のことである。われわれ衆生の煩悩(ぼんのう)を除き苦しみから救ってくれるものである。われわれもまたこの仏の智慧を与えられたならば、人々のために役立つようなはたらきをしなければならない。自分のためだけに智慧を磨いてもそれは物知りになったにすぎない辞書になったにすぎない。それは仏の智慧ではない。世の中や人々のために役立つ智慧を磨こうという気持ちは仏の智慧を与えられることによって起こるものなのである

次の如来の智慧とは仏の悟られた絶対の真理のことである。真如(しんにょ)であるともいってよい。真如も法界(ほっかい)も法性(ほっしょう)も、すべてこれ如来なのである。如来の智慧とは真如を知ることであり、永遠の生命を知ることである。真理を知ったものは如何なる迫害にも屈することなく教えを弘めることができる。世尊が菩薩たちに如来の智慧を与えたということは重要である。

次回につづく。

 

追記、仏が人々に与えるものとは何か。それは仏の智慧、如来の智慧、自然(じねん)の智慧の三つを仮に分けて説かれていますお願い

 

 

 

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