◎人に施すには .............. 慈悲心による(その1)
仏が菩薩たちの頭を撫でて、なぜこのようなことを頼むのか。自分が苦心して得たものでも、大いなる慈悲心があるために、人々にそれを与えようとしたのである。仏はもの惜しみしないばかりではない。畏(おそ)れるものがないのである。「畏れる所なし」 というのは、どんな人にも同じ教えを説くことができるからである。相手によって言うことを変えないからである。
「畏(おそ)れる所なし」 ということは、世の中に受け入れられなくても、意に介さないことでもある。世の中の風潮にあわせて仏教の教えを曲げたり、時流に乗る必要はまったくない。世間や時流に対して畏れる必要がまったくないことをいうのである。それで仏が人々に与えるものとは何か。それは仏の智慧、如来の智慧、自然(じねん)の智慧の三つである。この三つはまったく同じものであるが、そのはたらき方によって三つに仮りに分けたのである。仏の智慧は世の中の悩み苦しんでいる人々を救うはたらきをする。
「浄土論」(じょうどろん)に、「仏慧明浄(ぶつえみょうじょう)の日は世の闇(やみ)を除(のぞ)く」 という言葉があるが、仏の智慧が明らかで浄(きよ)らかになれば、それは世の中の暗闇を照らし出し、一切の闇を除きさるという。仏の智慧とはまさしく光明のことである。われわれ衆生の煩悩(ぼんのう)を除き、苦しみから救ってくれるものである。われわれもまたこの仏の智慧を与えられたならば、人々のために役立つようなはたらきをしなければならない。自分のためだけに智慧を磨いても、それは物知りになったにすぎない。辞書になったにすぎない。それは仏の智慧ではない。世の中や人々のために役立つ智慧を磨こうという気持ちは、仏の智慧を与えられることによって起こるものなのである。
次の如来の智慧とは、仏の悟られた絶対の真理のことである。真如(しんにょ)であるともいってよい。真如も法界(ほっかい)も法性(ほっしょう)も、すべてこれ如来なのである。如来の智慧とは真如を知ることであり、永遠の生命を知ることである。真理を知ったものは如何なる迫害にも屈することなく教えを弘めることができる。世尊が菩薩たちに如来の智慧を与えたということは重要である。
次回につづく。
追記、仏が人々に与えるものとは何か。それは仏の智慧、如来の智慧、自然(じねん)の智慧の三つを仮に分けて説かれています
さて、妙法蓮華経(法華経)って、何なの!?
↓↓
https://ameblo.jp/joverexr22/entry-12351467343.html?frm=theme
法華経は釈尊の肉声の教え、経典です。 是非とも、
釈尊のご慈悲を体験してみてください(西洲)
↓↓
↓↓
http://www3.hp-ez.com/hp/magokoro18
真実は一つ!!
クリックよろしくお願いいたします。励みになります (^^)/