この「見宝塔品」では、「法華経」 の教えは絶対真実の教えであるから、
どんな困難に出会ってもこれを説き弘めなければならないと強調している。
◎末世(まつせ)に弘めよ
法華経以外の経典は無数にある。これらの無数の経典を説くよりも「法華経」 を説くことがいっそう難しい。世界で最も高い「有頂天」 に立って「法華経」 以外の多くの経典を説くことも大変難しいことであるが、それ以上に、仏が滅した後のこの悪世の中で「法華経」 の教えを説くことは難しいのである。これが第一の説経(せっきょう)難である。
次に、人が大空を自由に動き回ることは超能力でもなければできないことであるが、それよりも仏がなくなったあとに「法華経」 を書き、その教えを信仰させたりすることはいっそう難しいのである。これが第二の書持(しょじ)難である。
大地を足の甲の上にのせて、そのまま高い天の上に昇ることも容易なことではないが、それよりも仏が亡くなった後で悪世の中で「法華経」 を読み、その教えを体得することはいっそう難しい。これが第三の暫読(ざんどく)難である。
世の中の末に、世界が焼きつけてしまう火災が起こったとき、その中へ乾ききった草を担って入っても焼けないということは大変難しいことであるが、仏が亡くなったのちに「法華経」 を保持して一人のためにでもこれを説くことは困難である。これが第四の説法(せっぽう)難である。
次にあらゆるお経を人に説いて、人々に六種の神通力を得させることは大変むずかしいことであるが、それ以上に仏の滅後に「法華経」 の教えを聴いて、それを実行するにはどうしたらよいか、を質問することは難しい。これが第五の聴受(ちょうじゅ)難である。
さらに、人が教えを説いてたくさんの衆生に小乗の悟りを得させて、六種の神通力を得させることは難しいことではあるが、それ以上に「法華経」 を護持して、後世に伝えることは大変むずかしいことである。これが第六の奉持経(ぶじきょう)難である。
この一段の経文の中に「難しとせず」 という文章が九つあり「難しとす」 という文章が六つあるから、「六難九易」 という。
仏が滅度した末世の険悪な世の中において「法華経」 を説き、その教えを実行し書写し、護持し、弘めていくことがどんなにか困難なことであるかをはっきりと示されたのである。
釈迦尊は悟りを開いてから、あらゆる国土で多くのお経を説いた中で、「法華経」 が第一であることを明言した。
経文には「この経第一なり」 とある。釈尊は法華経を説くのに最も大きな努力を注いだのである。
この「法華経」 の教えを信じて実行するものがあれば、「即ち、仏身を持つなり」 とある。仏自身が行われたことを自分も行うことができるようになることが仏身をもつことになる。
仏の滅後において「法華経」 の教えを信じ、実行する人こそ、真の勇猛精進する人、真の持戒者、真の頭陀行者、(頭陀とは、衣食住についての欲望を除くための修行。乞食を行うことなど十二の生活規律をいう)であるという。
仏の滅後、末法の世は恐ろしい。教えを信じず、理解しないばかりでなく、誹謗し迫害するもので満ち満ちている。そういう邪悪な末世の中で、「法華経」 の教えを説き続ける人がいるならば、その人はあらゆる人から供養される人になると説く。
この「見宝塔品」では、「法華経」 の教えは絶対真実の教えであるから、どんな困難に出会ってもこれを説き弘めなければならないと強調している。
第十一章 見宝塔品はこれでお終いです。 次回から第十二章 提婆達多品をご説明します。
追記、法華経に出逢うことの困難なこと。3千年に一度しか咲かない花を見るのに同じくらい難しく、何度生まれ変わっても難しいことが法華経にも説かれています(*_*; 妙法蓮華経(第一品から二十八品)、無量義経、観普賢菩薩行法経の三部経を受持することをお勧めします
法華経は釈尊の肉声の教え、経典です。 是非とも、
釈尊のご慈悲を体験してみてください(西洲)
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