教えを説く仏である釈迦牟尼仏とその教えが真実であることを証明するた多宝如来の
二人が並んだことは、この教え(法華経)の絶対性をあらわすためです。
◎半座を分かつ
この十方の仏や菩薩たちは娑婆世界(苦土・現世)にいる釈迦牟尼仏のところへいき、多宝如来の宝塔を供養しに行きたいと言った。
すると突然、娑婆世界は転じて清浄な国となった。美しい宝石で飾られ、良い香りを放ち、蓮の花におおわれた。
この美しい国土には、「法華経」 を聞いている人たちだけが残り、その他の天、人は他所(よそ)に移された。苦しい人間の娑婆世界がそのまま仏の世界になったのである。(娑婆即寂光土の世界)
十方の世界の仏が。各々ひとりの大菩薩を侍者(お伴)にしてこの娑婆世界にやってきた。
仏たちはそれぞれ宝樹の下に座った。仏が教えを説く場所は大きな獅子の座である。
仏たちはこの獅子の座り結跏趺坐(けっかふざ)した。この仏たちは釈迦牟尼仏の分身の中のほんの一部であった。
仏の分身は無限であり、仏の力は絶対である。
そこで仏はまだ来ていない分身を収容するために、さらに多くの国を清浄国土に変えた。その清浄国土は前の清浄国土とまったく同じ仏国土、寂光土(じゃっこうど)であった。仏はさらに多くの国土を寂光土に変えた。
かくて釈迦牟尼仏の分身が釈迦牟尼仏を中心として霊鷲山(りょうじゅうせん)に集まってきた。
それは無限の仏の集まりであった。たくさんの仏たちは侍者(じしゃ)に釈迦牟尼仏のご機嫌伺いに行かせた。
そして、釈迦牟尼仏は自分の分身が皆集まってきて獅子の座に坐り、宝塔を開いてくれるように希望を持っていることを聞いて、坐より立ち上がって虚空に住した。
周りの仏たちは起立し合掌して一心に仏の姿を見たのであった。
虚空に住するというのは、高いという意味だけではなく、大空のように一切衆生を平等に見下ろして教えを説く意味である。
仏は右の指で宝塔の扉を開いた。その中には多宝如来が禅定に入っているようなお姿で、端然として坐っていた。やがて口を開いた。
「何とすばらしいことであろう。釈迦牟尼仏が満足して「法華経」 を説いているとは。自分はそれを聴くためにここに来たのです」 と。
釈迦は、自分が信ずる教えをやっと説く機会が訪れたから、今や心から満足して説くのである。
だからこそ「快(こころよ)く是(こ)の法華経を説きたもう」 というお言葉になる。
多宝如来は、釈迦牟尼仏が説く「法華経」 の教えが真実であることを証明するためにここに坐っているのである。
まわりにいた人々は、このような多宝如来のお言葉は、いまだかつて聞いたことがないすばらしいお言葉であるとわかって、多宝如来と釈迦牟尼仏の上に花を散らした。まさにそれは一幅の絵であった。
すると、宝塔の中にいた多宝如来は半座(はんざ)を分けて、その座を釈迦牟尼仏に与えて、「釈迦牟尼仏、どうぞこの座にお座りください」 というや否や、即時に釈迦牟尼仏は宝塔の中に入り、その座に坐り結跏趺坐(けっかふざ)したのであった。
教えを説く仏である釈迦牟尼仏とその教えが真実であることを証明する多宝如来の二人が並んだことは、この教えの絶対性をあらわすものである。
半座を分かつとは、二人の心が全く一つになっていることをあらわす。多宝如来が釈迦牟尼仏に半座を分かったのも、二人の心が完全に一致していたからである。
しかも、このことを強烈に印象づけるために、二仏は並んで坐ったのである。
多宝仏は宝塔の中にいた時も釈迦牟尼仏が「法華経」 を説くことを賞讃し、さらに宝塔をあけた時も、賞讃し、なおかつ半座を分かち与えたのであった。
多宝仏と釈迦仏は一つの絶対の真理の共通の具現者であった。
次回につづく。
追記、壮大なスケールになってきました(@_@) 多宝如来と釈迦牟尼仏が半座を分け合うというこは、法華経の絶対性をあらわすものですね
法華経は釈尊の肉声の教え、経典です。 是非とも、
釈尊のご慈悲を体験してみてください(西洲)
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