不肖、私の司会進行によるネット動画番組、第一回がついに配信になりました。小林よしのりさんの「ゴー宣ネット道場」https://www.gosen-dojo.com/ 内コーナーです。


名付けて「切通理作のせつないかもしれない」。


ぜひご覧頂ければ幸いです!



再生リストのURLはこちらです。


http://bit.ly/9Mttkz  


10分×3回でコーナーが分かれてます。



出版不況といわれる昨今、あえてネットから本屋さんを応援したいと思いました。

これから、僕がかつて書店で出会って、心の友として大切にしている思い出の本の著者たちと、この番組の中で実際に会えないかと思っています。

でも「会いたくない」と言われてしまうかもしれません。事前の根回しは一切しません。断られても<届かなくても愛してる>をモットーにします。



好きな本の著者に会いに行く……というのは、今取りかかっている単行本の仕事をまっとうして時間ができたら、実はネットラジオとして始めたいと思っていました。


聞き手は僕一人で、音楽などもかけず、DJっぽい喋りもせず、地味にしかしやりたいようにやろうかと思っていたのです。


自分一人の中で妄想してきた企画ですが、今回小林よしのりさんに「ゴー宣ネット道場」内で番組をやらないかと声をかけていただき、動画という形で一足早く実現になりました。



動画となれば、やはり一人よりは対話形式の方が楽しいと思い、僕が大ファンである、新進気鋭の女優・しじみさんにお願いしました。奇しくもしじみさんは「カメラに向かって相槌を打ってくれるDVD」に出演されたばかりという「相槌の天才」でもあります。さすが女優さん、隣にいてくれるだけで画面が「番組」っぽく見えます!


しじみさんによる番組紹介はこちら↓

http://ameblo.jp/cizimikaikai/day-20100602.html





第一回は三つに分かれており、内容は以下の感じです。



以前日販の雑誌に書いたエッセイ『本屋との出会い』を女優・しじみさんに朗読してもらい、僕が物書きになる前に、本屋だけが憩いの場だった冴えない青春を語っていきます。本屋さんの甘酸っぱい思い出、世界と出会える可能性に満ちていたあの頃……。

http://www.youtube.com/watch?v=62ptuK2GKro&feature=PlayList&p=AFE446E751852E83&playnext_from=PL&index=0



僕が宮崎アニメの本でサントリー学芸賞(僕も知りませんでしたが、そういう賞があるのです)を戴いた時、授賞式に角川の編集さんが来て「ウチで本を出さないか」と声をかけてくれました。

ところがその時、僕は<失恋>していて、本どころではなく、口から出まかせで「失恋論ってどうですか」と言ったら本当にそれで書くことになったのです。

そんな顛末で出来た本ですが、出版後数年たっても、毎年失恋したという人からヴィヴィッドな感想を頂きます。

この本を読んで「失恋はひとを詩人にする」と思いを新たにしたという女優・しじみさんに『失恋論』で心に引っかかった箇所を朗読してもらい、せつないトークを繰り広げる……つもりが、しじみさんから男の身勝手さに対しての急所攻撃が!? 

http://www.youtube.com/watch?v=DP1g3JZn97c&feature=PlayList&p=AFE446E751852E83&playnext_from=PL&index=1



そして「好きな本の著者に会いたい」というこの番組自体が、かつて本を通して世界に憧れた私のラブコール、片思いなのです。そんな片思い計画を、<相槌の天才>しじみさんに助けてもらいながら、進めていきたいと思います。しかしこのしじみさん、聞き上手でありながらある瞬間フッと鋭く切り返して、語っている側をタジタジとさせます。そんな瞬間もお楽しみくださればと思います。

果たして、片思いの成就なりますでしょうか!?

http://www.youtube.com/watch?v=_aAFSk2pknc&feature=PlayList&p=AFE446E751852E83&playnext_from=PL&index=2



せつない思いを謳い上げて終わるのか、思いに応えてもらえるのか?――ぜひ見守ってください!

     そうか。

    自分が虚脱していたのは 曖昧なまま展望がなかったからだ。

    しかし曖昧な時間は、いつか必ず終わりが来る。

    誰かが責任を取っているのだということを、ハッキリ認識しなければならない時が来る。


    しかもそれを、自分はかなり遅れて認識せざるを得ないのである。

    取り返しがつかないぐらいに。


    思い出を作る時間すらあまりなかった。

    自分が彼女のために作り、彼女の前で歌った歌だけが、自分の中で充満していく。

    そうすることでしか癒せない。


    でも君は僕の中で作り出されたものじゃない。

    最初に出会った時も、僕からすれば、君の方から来てくれたんだ。

    その確かな力強さを、僕は忘れない。


    正直な言葉を探り当てようとしても、それは誰に誉められるものでもない。

    でもそれをしてしまうのは、それしかやることがないからなのかな。


    別れが来るのは、いいことだと思わなくちゃ


    いつかこの日が来なければならなかった


    しかし責任とは何ぞや。

    それは日々の積み重ねを象徴する言葉だろうか。


    そんなことを考えていた晩、深夜にかけて、前日たまたまTSUTAYAから借りてきた映画『ヘクトパスカル』(主演:穂花、監督:亀井亨、脚本:港岳彦・亀井亨、撮影:中尾正人)を見た。


    見ている間より、見終わった後、暗い中で起きだして、映画のことを思い出すと、そのかけがえのなさが浮き彫りになってくる。そんな映画だった。

    今の自分にとって必要な映画だと思った。そして、この映画が必要な人はいっぱいいるはずだと思った。


    片耳の聞こえない青年。声の小さいヒロイン。テレビのヴォリュームをあげても、なかなか聞き取れないセリフ。

    それ自体、聞こえにくいものに耳をすませなさいというこの映画のサインに思える。


     地元で葬送の儀をとりしきるヒロイン(穂花)のもとでアルバイトする青年。ヒロインは地元でまがまがしいもののように言われている。「おくりびと」の主人公たちが浴びていたような差別的視線ともとれるが、どうもそれだけではないようだ。


     葬送のあった嵐の夜、外で荒々しく男に抱かれるヒロインを目撃してしまう主人公。このあたりから映画は不穏な空気になる。


     嵐になるとセックスしたくなる、誰とでも寝るというヒロインに、主人公は動揺するが惹かれてもいる。


      いったん違う女の子(しじみ)と会う主人公。地元のサセコのコらしく、誰とでも寝るという噂の彼女と会ってなにかを確かめたかったのだろうか?


      女の子は、誰とでも寝るという噂を首肯し、歯を外してみせる。上下の入れ歯を持って青年のズボンを下ろす。

     この入れ歯を外すシーンは「うわッ」と思うショッキングな場面。

     おそろしいことが平気で行われているという淡々とした感じ。

     しかしその異様な世界に引き込まれそうになる。

     主人公ではないこの少女の場面があることで、映画の中にぐっと引き寄せられるのを感じた。



     この映画のセックスおよび性的な存在としての女性は、どこか妖怪じみている。まるで子どもの時にのぞき見したセックスの異形性のように。

     ほとんどのシーンが喪服であり、その登場と合わせて大部分が雨にしたたり、着衣のまま風呂に入り栓を抜く穂花のヒロインは、魔界とのこの世界の間に位置するかのようだ。

  

     話は前後するが、しじみ演じる女の子が青年とした後、私は昔マワされたから誰とでも寝るというようなことを言って、男はみんな同じ、あんたもと言って去る。ズボン下ろしたままの姿で立ちつくす青年。

    性の体験が罪の意識を持たされることと釣り合うように提示されている。


     しかしこの映画は、そんな妖怪じみた存在に女性性を置きながらも、主人公がヒロインとの関係を受け入れていこうとする。「女は怖い」というオチでもなく、牡丹灯籠的に男が食いつくされておしまいという悲喜劇でもない。


     また、汚れの果てに天女のように汚れのない女性性が現れ、それが男性を救ってくれるというような結末とも、もっと違う何かに抜けようとしている映画に思えた。

    男が墜ちていくのに女神が寄り添ってほしいという<救済>とも違う。


     映画の中で描かれる彼の意志を、その時間の中で一緒に体験していく。見る側もそのことでこの時間を作っていき、その時間を刻むことでしか救済されない。

     その、映画の中での肯定の感覚が、見てしばらく後にじわっと蘇ってくる作品だった。


     映画を見てしばらくして、映画のことが蘇ってきて、そして自分は思った。かつて自分が、罪をおかすという形でひとと出会ったのにも、意味があるのではないか。


     否、そう思わなければ救われないという意識そのものが自分を生かしているのではないか?


    というわけで『ヘクトパスカル』は自分にとっていいタイミングの映画だった。返すまでまだ一週間あるからまた見直そうと思った。


    そして返却の前の晩、二回目に見る時はヘッドフォンで音声を聴いた。

    すると、一回目に見たときには、セリフのほとんどを聴き取れていなかったことがわかった。

    ひとつ発せられた言葉が、かなり後のシーンで主人公の中にどう受け止められたのかが出てくる。そのことで、僕はこの映画の登場人物をさらに好きになった。


    僕はこの映画のDVDを買おう、手元に置こうと思った。


    いつか自分にも、いまが伏線だったと思う時が来るだろうか。


    
セカイをそのまま見るということ

 そろそろ一か月ぐらい前になりますが、3月19日に「spotted701 vol.13」刊行記念イベント『スポポリリズム/VOL.11 “音楽と映画の世界へようこそ”』(於三軒茶屋Grape Fruit Moon)で川本真琴さんの歌に接してしびれました。一つ一つの音を愛しむ感じが伝わってきました。

 

 以来、新譜『音楽の世界へようこそ』をずっと聴き返しています。


 7曲目の『ウグイスー』で坂道行くとホントに友達が何気に座ってたって感じのところは、その時のライブで何気に川本さんがすっと入って座って歌に合流してた感じを思い出させました。



 聴くごとに、僕的には勝手に親近感が湧きました。


 僕はかつて『情緒論』という本を書いた時に「セカイをそのまま見るということ」という副題を付けました。

  言葉で世界が認識できる、言葉と物事を一対一で捉えるということに、かつての自分は何の疑問も持っていなかったと思います。それが物事の直接性だと思っていました。

  むしろ曖昧な物言いをする大人はキライでした。

  しかし、だんだんそれだけでは物足りなくなってきました。

  自明だと思われていた感覚の手前にあるものについて、捉え直したい衝動に駆られたのです。

 

「♪旅立つ時が来たなら/もう帰るところはないのさ」という一曲目の表題曲『音楽の世界へようこそ』の一節を聴くたびに「ああ」と思います。

 

 音楽を聴いていると、何か別の空間に飛んで、景色が重なってくる感じがする時があります。べつに歌詞で歌われている光景と関係なくても、何か別の次元とつながっていくような。

 

 でも、そこに魅入られてしまうと、今度はどこが帰っていくべき場所なのかが分からなくなってしまう。

 

 川本さんは、そんな風に人をさあっとどこかに連れてってしまう<音楽>の世界に魅入られたひとりとして「帰るところ」は同じ音楽の世界にしかない、と思ったのではないでしょうか。


 それが、9年ぶりだというこのアルバムの出だしの<宣言>なのではないかと思いました。


 「♪今すぐ何処ででも会おうよ/今すぐ何処ででも会いたいの」

 この後の「♪ああ、こころ輝く/ああ、音が響いて」の川本さんの伸びやかな歌唱は、本当に歌ったそばからキラキラした光が粉となって散っていくような、聴くこちらにとってまさに「珠玉」の体感でした。



 9曲目の『縄文』でも、「♪じょーうもーんの」って川本さんが歌うそばから色彩が尾をひいてく感じがします。

屋内にいつも入ってくる虫の「変わった模様」を見ているとジャングルに行ったように感じるのは、いわゆる「想像力」ではないんだなと ではなにかと問われれば難しいのですが、強いていえば「感応力」なのかな。それが歌っている間に見えるのです。



 3曲目『夜の生態系』を聴いていて、昔写真家の内藤正敏さんから聴いた話を思い出しました。月光の夜の山頂って、あらゆる動物が歓喜のあまりそこらじゅうを走り回り、木の間を伝って大騒ぎになるんだそうです。まさに「真夜中の遊園地」!


 曲の最後、夜窓際で戸惑う猫に「こっちへおいで」とシメるのは、『縄文』で縄文時代に返ったとしても「わたし、きっとカモシカは撃てないわ」と思うのと通じるキュートさがあります。

 

 犬は死んでない、とはじまると「わんわんわん」って聴こえる出だしが楽しい二曲目の『何処にある?』。花も死んでなくて、人間も死んでる・・・・はずがないというところで、それまで「みんな生きてる」という賛歌に聴こえていたものが、実は不確かな生命の上に乗っかっているとりとめのなさへと一気にめくりかえされていくのにはビックリしました。


 そして「♪いつか誰かが言う その答えを」っていうのは、実際メロディとともに川本真琴が歌っているのを聴くと、その言葉がどこかで誰かから唐突に発せられる時が来るような偶発性を帯びて聞こえるのです。

 ばらばらな中から、集約させようとする表現行為をするそばから、またばらばらになってしまう。嘘のない表現って、どこにあるのかなと思わせます。



 8曲目『クローゼット』は文節以前に区切って歌いだしていく感じが心地良いです。

 いつかどこかで会う<未来>の人に<面影>を感じるんじゃないかと期待が形になっていく。遠くから雷のようにドラムが唸っています。

 「ずっと愛してる」「ずっと愛されてる」のところで冒頭から流れているピアノがからんでくるところ、そしてピアノが残る・・・・・・綺麗です。  



 昔の『桜』や『1/2』で歌われた青春期のつかのまの一体感の、先を行くのではなく、手前に行っているのがすごいなと。

 最後の『小鳥のうた』ではまさに生まれ直してきたような瞬間があります。


所謂全体像より一つの身振り、動き始める感じをつかんでいるのかな、と。 

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