元寇1
歴史が好き。古代から中世、近世、現代まで。日本史も好きだが、西洋史ならローマ時代、中近東ならササーン朝、パルティア、中国史なら宋、元あたりが特に興味がある。 最近クビライと元寇に注目し、小説も含めていろいろ本を読んでいる。事実関係の理解も時代とともに認識が変わってきているようだ。 日本軍は一騎打ちを仕掛けて集団戦法のモンゴル軍にやられた。 モンゴルの弓は小さいがよく飛び、毒矢で日本軍は苦しんだ。 文永の役ではモンゴルは1日戦っただけで引き上げた。その理由は不明だが、本気で占領する気はなく、威力偵察だったのではないか。 弘安の役では石築地にはばまれ、海上をうろうろしている間に暴風雨がきてほとんどの船が沈んだ。 これらの通説が生まれた主犯として「八幡愚童訓」という元寇から数十年後に書かれた書物の存在があげられている。これは神官が八幡神の霊験を書いたもので、モンゴル軍を追い返した功績を自分らの神仏への祈祷にありとし、祈祷がなければ負けていたというストーリーにするためモンゴル軍の脅威と日本軍の苦戦を強調した。当時のまとまった文献が他にほとんどなく、多くの歴史家がそのまま取り入れたのが通説になり、教科書にまで書かれることになった。 一方、改めて注目されているのが竹崎季長の蒙古来襲絵詞で、彼が自分の武功を強調しているのはともかく、実際の戦闘場面がかなり忠実に再現されているという。そういえば、馬に乗っているのは日本側だけで、モンゴル側にはいない。朝鮮半島や中国から馬を船に乗せて輸送し、日本の海岸近くの海上で上陸用の小舟に乗せ替え、浜に着いて敵前で舟から降ろす作業の大変さを考えると、いったい何頭の馬が日本に来たのかと思う。また、日本側兵士が頑丈そうな甲冑をまとっているのに対し、モンゴル側兵士は綿や皮でできた戦袍を着けているが日本軍の弓矢の攻撃を防げていない。さらにモンゴルが中央アジアや西アジアの戦いに駆使した攻城兵器も見られない。 地理の不案内や補給の困難さ、遠来による疲労を考慮せず、戦力だけを比較してもモンゴルに勝ち目はなかったと言えそうだ。 さらに知りたいのが、なぜ、モンゴルが日本に攻めてきたのか、という問題だ。これまで以下のような説が言われてきた。 南宋を攻略するために、南宋の友好国で硫黄や木材といった戦略物資を輸出する日本が邪魔だ。 黄金を多く産出する豊かな日本の資源を入手したい。 南宋滅亡後の弘安の役では、降伏した南宋の兵が邪魔なので日本に捨てた。 何度も使節を派遣したのを無視した日本にプライドを傷つけられた。 単に自国の勢力範囲を広げるため、壁にぶつかるまではどこまでも侵略する。 高麗が日本侵攻を再々、勧めるのでその気になった。 最後の高麗原因説だが、井上靖の風涛では、舟や食料、水夫の提供による多大な負担を避けるため、モンゴルに日本遠征をやめさせるように画策するさまが描写されているが、属国化による自国の負担を新たに征服する日本に押し付けようという意図があった可能性もあり微妙である。 個人的に可能性が高いと思うのが、クビライの世界戦略で海を経由したユーラシア交易圏に日本を組み込む意図があったのではないかという説だ。南宋攻略後、泉州が世界最大級の港として繁栄し、モンゴルの首都である大都や東南アジア、インド、西アジアを結ぶ巨大な交易圏が生まれていた。博多を拠点とする西日本をこの中に組み込むというのはクビライが考えそうなことだと思う。 弘安の役で敗退した後も、クビライは3度目の日本侵攻を本気で計画していた。弘安の役で逃げ帰ったモンゴル軍幹部は、敗戦の原因を台風のせいにしたであろうが、賢いクビライが戦いの実態をどの程度、把握していたのかは興味深い。