私は日常において、他人と交わっている時はたいそう張り切っているように思う。

逆に暇ができて個人的な時間ができると怠惰に走りやすい。

しかも自慢ではないが、人一倍怠惰であると自負しているorz笑



最近は忙しめなので、ゆっくりとした時間が欲しいと願う。

しかしいざ時間ができると怠惰に過ごしてしまう。たとえばずっと寝ていたり。

人間の体って不思議。寝すぎると疲れるようにできてる。

体のリズムが崩れるからだってどこかで聞いたことがある。

いずれにせよ、寝すぎるとあっという間に時間は過ぎ去り、しかも疲れる。なんという悪循環。

きっと神様は人間を怠惰に過ごすように造っていないからだろう。

聖書では怠惰であることは罪であると明言している。



忙しい⇒ゆっくりとした時間が欲しい

暇⇒なにかやっていないと罪へ



どうすればいいんだ(笑)

まあ、暇な時間を有益に過ごせばいいのだがこれが難しい。

人間の罪の性質上放っておけば怠惰に向かうし、習慣化してしまっている。

習慣はなかなか離れられないから習慣なんだよね。困った。



この怠惰という習慣から脱却するには具体的にどうすればいいのだろう。

暇な時間に、ゆっくりと過ごす”何か”をすればいいのだろう。

何かをしつつ、かつゆっくりする。矛盾しているような言葉だ。



しかし私の周りの人々(クリスチャン)を見れば、暇な時間を有益に過ごしている人が大勢いる(と思う)。

彼らは何をしているのだろう。どうやって個人的な時間を過ごしているのだろうか。

とても興味がある。

別に休日の過ごし方を聞きたいわけじゃない。

他人と交わらず、一人でいる時間に何をしているかが聞きたいのだ。

生きていれば、大抵の人にはそういう時間ができるはずである。



この文章を見返してみると、他人の文字通りプライベートな領域に突っ込もうとしている(笑)

でも全部は言えないにしても、ある程度は言えるはずだ。

というより、言えるべきなのではないか。

神の前に正しい事をしているならば、言えるべきではないか。

ちょっと極論かもしれない。でも、それこそここは個人スペースなのである程度はいいよね。



論点がずれてしまった。

ともかく今の私は”何か”を見つけなければならないのだろう。

いろいろな意見を参考にしつつ。





と、暇なのでやたらとブログを更新することで暇をつぶしているのである。

そういった意味で、考えを文章化することでまとめることは有益な道の一つかもしれない。



なるほど、そういう暇のつぶし方もありかもしれない。

罪の力はすごい。というより計り知れない。

どんな時もつねに罪と隣り合わせ。油断したら即アウト。

どんなに良いこと、素晴らしいことの後であっても罪を犯し得る。

いやむしろ良いことの後だからこそ油断するのだろうか。

ともかく瞬時に天から地へ落とされる心地がする。

罪の後に生じるのは、虚しさ、自虐感、絶望感、苛立ち。

原罪が悔しい。いや悔しいというのは適切でないかもしれない。


罪はどんなものでも、最終的には「自己中心」に行きつくと思う。

意識しようが無意識だろうが自分が神状態の時である。

パスカルが「人間には神にしか埋める事の出来ない、神があけた穴がある」的なことを言ったらしい。

たぶんそれに近いものがあるのは事実であると思う。

自分の目に素晴らしく映る(神の御業を含む)ものを、神に感謝する。

と、同時に罪が発生しているような気がする。

心の中はなんと制御が難しいものだろうか。

罪を犯してはいけない、と意識すると同時に罪に至りやすい。

ここまできたら、もうどんなに良いものを求めてももう無理だろう。

神により頼む他ない。罪は神以外のすべてに勝る。


しかしここで神により頼む、ということがかなり難しい。

神に信頼する、という意味である。

原罪が受け継がれている人類は、神に信頼することを実践するのが極度に苦手だ。

頭でわかっていても行動が伴わない。

私の場合は、罪の前に一度立ち止まることがある。しかし負ける。

なぜだろう。そんな時は祈ればよいのだろうか。

だがその時は祈れない。祈りたくない。罪が先行。

の繰り返し。


神は私たちが弱いことをご存じである。そしてそんな私たちのためにイエス様を地上に送った。

それゆえ私は赦された。

しかし、だからといって罪を犯してよいわけではない。

でも私が罪を犯さなくなることはない。


結局問われるのは信仰だ、と友人が言っていた。

まさにそうなのだろう。

罪を犯さなくなることはない。

表現は正しくないかもしれないが、罪を減らしていきたい。

そのためには信仰の成長が必要である。

聖書を読まなくてはならない。受け入れなくてはならない。

祈らなければならない。

そうしてやっと罪深い私は神に導かれる。


導、という漢字は「道」と「寸」があわさったものだ。

「道」信仰の道へ

「寸」少しずつ、私にあったペースで

「導」導くのである。


そう、これには時間がかかるのだ。

急に成長する、というより、日々神との関係をもつことで進んでいくものであると思う。

であるならば、まずは日々のディボーションを妨げるサタンの誘惑に打ち勝つ必要がある。

そのように祈っていきたい。


2度目になるが時間がかかる、という点を忘れないでいきたい。

いっきに成長してくれれば楽なのだが、焦りはかえって落とし穴かもしれない。

そういうところはサタンにつけ狙われやすい。

今日この考えと決心を境に、新たな方向へと踏み出したい。