2. 正観の結婚と妻雪枝の出奔
文政9年12月■6日に銃賛成慶諦が亡くなったので、翌十年滝脇の専光寺の娘雪枝(20)と結婚した。(嶺規■は雪枝は当寺血縁なりと書いているが、これ は九世教誠の妻が太平の縁盛寺からきていることと関係があるのであろうと推測される)正規はこの年■律■に任ぜられている。
翌11年(1828)に長男嶺規が生まれた。本堂再建の工事は、天保2年(1831)に本堂の上棟、■6年には二男慶信が生まれ、庫■の上棟が合った。浄 光寺はこうした中、天保6年(1835)お礼金339両をもって寺格を全■地とした。正徳2年(1713)飛■地となってより123年目である。
天保7年、雪枝は2人の子供を置いて、泉田の順慶寺(母の在所)へ行き、いとこの池浦良玄と結婚した。これにより正規は竹村の光恩寺より後妻菊野(36) を迎えた。天保9年(1838)3月■6日、本堂など再建の工事は完成を見ぬまま幼い子2人を残して死亡。55歳であった。

十四世 石川正観(1783-1838)について

御堂 今も然 正観忌   三太(1953頃の作)


1. 入寺の由来
文政9年(1826)一月、上野の浄願寺岡本春嶺(弘誓院)の二男 正(43)が浄光寺へ入寺した。これは春嶺は西尾の聖運寺から浄願寺へ入寺し、多額の財産を蓄えたが、このお金を持って本堂を建てる資金としたいと考えていた。文政7年(1824)春嶺の死後、春、正、了善の3人の子供が集まって、遺産2,450両の分配について合意した文書が正観のタンスより発見された。たまたま浄光時は本堂再建の計画があって、木材を寄せるなどの準備をしていた。春嶺氏の願いもあって、浄光寺へ入寺することになった(これより先に河内寺へ入寺したことがある)。
つまり、本堂再建のため親の遺産660両を持参して入寺したのである。
その頃浄光寺には、十三世慶諦が三ツ木の円立寺から来た後妻(妊娠中)と住んでいたが、正の入寺にあたり隠居し、3月に一子浪江が生まれた。
後年(弘■3年)に、この浪江さんが寺領の松韻寺松崎智に嫁いだ。
そして文政9年12月慶諦が亡くなったので、後妻は子を連れて三ツ木へ帰った。