こんばんは、皆さん!
今回は、前回お約束しました通り、毎年恒例のイベント「島の渡航記」の記事をお届けします。
2024/04/13(土)、私は好天の日を択んで玄界島に渡航しました。
本当は「団地と桜」探訪の前に行きたかったのですが、休日が悪天候だったり有給休暇をもらっての日が海の荒れていた日でフェリーが欠航していたりで、結局は4月も半ばに入ってからの渡航と相成りました。
ここでWikipedia先生をカンニング...ではなく、玄界島の公式サイトを閲覧しまして、お手軽にこの島の概略を漁ってみましょう!
玄界島は福岡市西区に所属する島で、ベイサイドプレイス博多からフェリーで35分で到着します。
島の伝承としては、復讐譚としても有名な百合若伝説があります。
また、元寇の際にモンゴル軍が攻めてきた際は、島は戦場となり夥しい血が流されました。
江戸時代には、外国船の監視を行う「遠見番所」が玄界島に設けられます。
明治以降、幾多の市町村編入が為されて、最終的に福岡県西区の一部となったのは、1961(昭和36)年。
2005年に福岡西方沖地震により、島は甚大な被害を受けるものの、2008年には復興事業が完遂されます。
この裡「福岡西方沖地震」に関しましては、まとめの文で再度言及いたします。
それでは、写真をご覧になってくださいませ↓!
先ずは、私の乗ってきましたフェリーの写真から。
福岡市営渡船の「みどり丸」という名称です。
ネコ。
私は何処かの島に渡航しましたら、ネコの写真を必ず撮ることとしています。
ネコ、かわいいですが「野生動物」ですので、餌付けは厳禁です。
木造倉庫。
漁によって獲れた海産物集積所の壁画。
この裏にトラックが停まり、獲れた魚等を運ぶのです。
郵便局。
島の住民の皆さんが、ここで本土に渡った親族や知人友人・そして昨今ではメルカリで販売したモノを買ってくれた方に、手紙や品物を送られるのです。
そしてまた、高齢者年金の支給日や何らかの事務所に勤務される方は、この郵便局でおカネを下ろされたりも。
「漁業集落」
あの大地震の後ですから、もうすっかり現代化された様式の住宅で埋まっています。
階段を昇ってみて、振り返ると見晴らしの良い光景が。
桜の花。
もう既に4月も半ばでしたが、この島の桜は満開を少し過ぎていて、まだ花も多く残っている...といったところでした。
九十九折(つづらおり)の道路を昇ってみて、住宅地を望みます。
階段を昇っていると、所々にポケットパークに出くわします。
島民の皆さんは、ここで一休みしては島の高台の小中学校に出向かれるのでしょう。
...にしても、そんなポケットパークから眺める玄界灘は、大変な絶景でした。
坂を登り切った場所に、玄界島小・中学校が所在します。
この学校は、島に地震・津波などの自然災害が発生した際は頑強な「要塞」となり、島民の皆さんの生命・財産を守り抜くのです。
島の畑。
島民の皆さんは、漁業の片手間でしょうが畑も耕され、食事の際はそこで採れた野菜をも摂取するというバランスの良い食生活を為されているのでしょう。
玄界島小・中学校。
小さな島ですので、学校も小学校と中学校が併設されています。
...というわけで、学校まで登ってきましたので、これから坂を降ります。
ポケットパークの桜。
「団地と桜」探訪の際は、この少し前に写真を撮りに出かけたら良かったかなぁ...???
小鷹神社。
百合若大臣の飼っていたタカ・「緑丸」を祀るために建立された...という謂われがあるそうです。
「タカ」にまつわる神社ゆえに、この社はソフトバンクホークスの優勝祈願もプロ野球ファンによって行われています。
今回、私が不思議に思われたのは、このような住宅の庭に建立されてあった祠です。
自分の推測では、これらの祠は島の有力者の「守護神」のようなもので、島民の中でも家柄の良い家庭・もしくは財力のある家で独自に神様が祀られているのではないか?と。
もちろん、これは個人的な推測ですが...。
このお寺?は...???
観光パンフレットをひっくり返しても、サイトを閲覧しても詳しい情報は掲載されていませんでした
(-ω-;)ウーン
...というわけで、ほんの3時間程度の短い間でしたが、島の一部を探索してみました!
〆は再びフェリーの写真で。
玄界島が甚大な被害を蒙った「福岡西方沖地震」から、既に20年が経過しようとしています。
私は地震で被害を受ける以前の玄界島の漁業集落の様子が判る写真を閲覧したいと思い、島の公共施設にお問い合わせしましたが、ついぞ叶いませんでした。
今現在、島の「漁業集落」は、完全に現代的な「ニュータウン」に置き換わっています。
この光景を目の当たりにして「旧き良き日本の光景が消えてゆく」と嘆かれる方も、非常に多いと思われます。
しかし、それでも良かった、と私個人は思います。
「ひとたび災害が起きたら損壊してしまう伝統的な漁業集落」と「災害に強く住民の生命・財産が喪われない住宅街」を天秤にかけるなら、後者の方こそを我々は選択すべきなのです。
今年は新年早々、能登半島で大地震が発生し、数多くの住宅と人々の生命・財産が喪われました。
そして震災からの復興に際しては、この教訓を活かして地震に強い住宅・店舗・ビルを再建し、再び多くの人命が失われないような街並み・集落を形成しなければならないのです。
それこそが、あの震災で命を落とされた能登半島の住民の方々に対しての「供養」ともなるのでしょう。
次回のブログ更新は、文学フリマ東京に行ってきましたので、その旅の記録をテーマ:東京近郊として5回に分けてお届けする予定です。
次のブログ更新を、楽しみにお待ちください!
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