皆さん、うちんブログば閲覧してくんさいまして、あいがとうございます。
株主優待券を利用しての旅も、今回で一区切りつきます。
即ち、ここで6回分のクーポン券を、完全に使い切ったわけですね。
さて、今回訪れた場所は、佐賀県佐賀市川副町の「三重津海軍所跡」という幕末の海軍基地です。
見学した日にちは2024/01/27(土)。
この日は寒かったのですが、天気も良く衣類の調整は不要という、絶好の行楽日和でした。
つまり、早朝もお昼も同じような気温だったので、いちいち上着の着脱が要らなかった...ということです。
まぁ、今回はそれほど厚着をしなかったのですが。
さて、ここで恒例・Wikipedia先生をカンニングして、ついでにガイドマップの記述をも参考としての解説にまいりましょう!
三重津海軍所は、佐賀藩が洋式海軍の技術を藩士たちに学ばせるために開いた訓練場・造船所・ドライドック・軍事基地等の総称です。
江戸時代後期、黒船の来航により、佐賀藩が主に担当していた長崎警備の負荷も増して行きます。
そこで幕府の命により、佐賀藩は現在の佐賀県佐賀市川副町早津江津に白羽の矢を立てて「海軍の拠点」を設けるべく工事がスタート。
しかしながら佐賀藩は、幕末動乱期に徳川幕府側ではなく新政府側に付くことを選択しましたので、勢い三重津海軍所は討幕の拠点のひとつに数えられることとなったのです。
当時は、この地の造船所によって「凌風丸」「電流丸」等の蒸気機関を具えた軍艦が次々と建造されたそうです。
現在、三重津海軍所跡は発掘調査の後に、厳重に保存措置が執られています。
その件に関しましては、後述しましょう。
それでは、写真をご覧になっていただきましょう↓!
「佐野・三重津歴史館入口」バス停。
先ずはここでバスを下車して、資料館へと向かいます。
...しかし、自分もこの地は初めて訪問しますので、少々道に迷ってしまいました。
雄大な畑の風景。
『県別マップル41 佐賀県道路地図』にも記載のある㈲久保商店。
結構大きな建物でしたので、印象に残りました。
祠。
私は信仰心に乏しいのですが、このような祠を見つけましたら、なるべく写真に撮るようにしています。
目的地「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」。
遂に到着です。
本当はバス停からすぐ先の道を曲がって、そのまま真っすぐ通れば着いたのですが、自分も寄り道遠回りが好きですので時間をかけてここまで行きました。
ここにて、一通り展示と映像を鑑賞しましたが、さすがに館内の展示物を写真に撮るわけにも行きませんので...
(;´∀`)
資料館を見学して、いよいよ世界遺産・三重津海軍所跡へと参ります。
...この写真をご覧になって、
「えっ!?」
と驚かれた方も多いでしょう。
近代建築群や軍艦等が待っていた...と思いきや、何もない「広場」ですから。
途中をちょっと端折りますが、この辺りは「修覆場跡」と呼称されています。
この場所には、造船のための道具の製作所・金属加工場・ボイラーの製造場所、そしてドライドック等が設けられていました。
かつては、この場所こそが三重津海軍所の「心臓部」だったのです。
筑後川。
「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」を、遠方から望んでみます。
この石組から北は、かつての「稽古場地区」でした。
長崎海軍伝習所にて学んだ伝習生たちが、この場所では教官として新兵の訓練を行っていました。
石組みは...???
パンフレットに特に記述も無いので、どうやら「意匠」のようですね。
この石組も、どうやら「意匠」の模様。
かつては何らかの役割があったと思われますが、自分も疲れてきましたので、詳細はパスします。
和船圍場跡。
この地区では、海軍所が造成される以前の佐賀藩の御船屋(和船の管理所)として活用されていました。
洋式軍鑑のみならず、江戸時代ですから当然ながら和船もこの場所には係留されていた模様ですね。
現在は埋め戻されていますが、ここで洋式軍艦と和船とを区別して碇泊させていたらしい。
船溜まり。
和船圍場跡が使用されなくなっても、この場所だけはその後も漁船が碇泊する漁港として活用されていました。
世界遺産に登録された後も、ここにはボートが係留されています。
樹木が印象的でしたので、思わず写真に撮りました。
三重津海軍所跡から離れて、帰路に就きます。
逆光ですが、これはかつての溶鉱炉の模型...のようですね。
というわけで、バス停に戻って参りました!
さて、今回の三重津海軍所跡のご紹介で、世界遺産の地が埋め戻されて、現在はひたすらに「だだっ広い草原」となっていることを知ってがっかりされる方も多いとは存じ上げます。
しかし、これには理由があるのです。
三重津海軍所には、数多くの木材その他の腐食しやすい建材が用いられていました。
それらを後世に遺すには、土中に埋め戻して腐敗・破損・火災による焼失を防ぐしかないのです。
仮に自治体・学術関係者・市民その他の関係者一同の総意が、
「世界遺産の地・三重津海軍所跡に大々的なプロモーションを仕掛けて観光客を呼び込もう!」
という判断を下していたら、今頃は文化財の破壊は留まることを知らない状態となっていたでしょう。
それこそ、大々的に観光地化を推進した結果、歴史ある近代建築が次々と解体されて「マンションとハコモノの街」と化した門司港と同様に。
ですから、三重津海軍所跡を観光地化するよりも、次世代に遺すべく保存に舵を取った学術関係者一同は大変賢明だったと言えますし、大学院で文化財学を修めた私も敬意を表したいと思っております。
次回のブログ更新は、やはり佐賀県を巡った記事の第二弾として、嬉野温泉探訪記をお届けする予定です。
皆さん、次回んブログ更新ば楽しみに待ってくれん!
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