皆さん、わしんブログを閲覧してくんないまして、ありがとうございます!

 

これよりしばらくの間、2023/07/27(木)~2023/07/30(日)に足を運びました「宮崎18きっぷ限界旅行」のルポを拙ブログにて公表したいと思います。

実を申しますと、私は九州各県に頻繁に足を運んでいますが、宮崎県だけは滅多に訪問しないのですね。

やはり「宗太郎越え」のハードルが高すぎる所為か、18きっぷを買ってもどうしても「行こう」というモチベーションが起きなかったのです。

そんな私が今回、有給休暇を取得して「限界旅アメブロルポ」第一弾の場所として、宮崎県を選択しました。

自分も「どうせ休暇を取って18きっぷ貧乏旅行をするなら、滅多に行かない場所に足を延ばそう」と思い立ち、こうして「宗太郎越え」の向こう側の地へと足を運んだわけです。

今回の旅行の目的地は、以下の4カ所↓。

 

・延岡城

・日之影町

・高千穂鉄道廃線跡

・リニア実験線跡地

 

これらに加えて、フードポルノ記事も投稿いたします!

 

それでは2023/07/27(木)の「宮崎18きっぷ限界旅」其の壱・延岡城探訪記に、早速参りましょう!

 

例の如くWikipedia先生をメインにwebで訊いてみて、延岡城の概要を予習します。

 

延岡城は、1603(慶長8)年に落成されました。

当初の城主は高橋元種。

時代は既に徳川の天下となっていましたが、その政情は不安定でしたので、この城もやはり大名家の威を誇るのではなく戦に特化した造りとなっています。

その後、高橋家は改易され、有馬家→三浦氏→牧野氏と城主が変転し、内藤氏の時代に明治維新を迎えました。

1870(明治3)年、延岡城の敷地は薬草園に転用され、廃城となりました。

1935(昭和10)年、この城は昭和天皇の行幸を受けて、それを機に大幅な大改造が施された模様です。

「昭和天皇行幸」の件に関しましては、拙ブログ記事「まとめ」の文に書き綴ります。

 

それでは、写真を披露いたしましょう↓!

 

昼下がり、私は長時間電車に揺られて延岡市に到着しました。

本当は市内も見学したかったのですが、シェアサイクルの登録が面倒でしたので、今回はバスに乗って延岡城を観光するのみに留めることとしました。

そしてコレが最初に撮ったバス停。

延岡城には「九電前・市役所西」バス停から下車すると便利です。

 

石垣遠景。

風雨に晒されながらも、緻密な計算の上で構築されていることが窺えますね。

 

石垣ズームアップ。

生憎、何処で切り出された石を使用しているのか?は、案内表示板には掲載がありませんでした。

 

北大手門。

延岡城に登城するには、ここから入るのがメインの道のりです。

風格のある門ですね。

 

北大手門のすぐお隣には、内藤家の歴代藩主墓所が所在します。

普段は立ち入りが出来ませんが、墓石の配置図が掲示されており、ここに延岡を治め、藩政を執っていた大名家の人々が弔われていることがお判りいただけます。

 

さて、この城の白眉とも言える場所が、この「千人殺し」の石垣です。

言い伝えによりますと、ここに敵兵を誘導しておいて、頃合いを観て礎石を取り外すとたちまち石垣が崩落して1,000人を生き埋めに出来る...ということだそうです。

但し、ネットで調べたところ、どうも「千人殺し」という名称は明治以降に名付けられたものらしい。

また、昭和天皇の行幸の際には、テロを警戒してコンクリートで隙間を埋めたりもしていますので、この石垣は築城当時のままの姿を保っていないそうです。

 

 

石垣の階段。

一般的に城郭の階段は、馬で登城できるようにステップを広めに取る造りとなっています。

そして私は、石を切り出した際の楔の跡にも興味がありますので、こうしてステップの写真を撮影しました。

文化財の専門家であれば、このステップから当時使用された石切道具の形状を推測できるでしょう。

 

内藤政擧(まさたか)銅像。

江戸時代最後の延岡城主です。

明治維新後は学校設立・銅山の開発・水力発電所を設ける等の多彩な活躍を見せて、延岡市民の生活の向上に一役買いました。

銅像は大正時代に市民の浄財で建てられたものの、戦時中の金属供出で一時期姿を消して、戦後にコンクリート造りで像が再建されました。

それを戦後も40年経った1985(昭和60)年に、市民の浄財によって像が再建されて現在に至っています。

 

逆光で見えづらいですが、これは「アジア・太平洋戦争戦没者慰霊碑」...だったかと。

 

天守台に到着しました。

早速延岡市内を見晴らしてみます。

 

「天皇巡幸一周年記念」の旗竿です。

昭和天皇の行幸により、延岡城もあちこちが大改造されたことが窺えますね。

 

太鼓櫓跡。

かつては、この場所で太鼓を打って城主の登城の合図としたそうです。

明治期にこの場所に今山八幡宮より鐘が移され、以降延岡市民に時報を知らせるのに役立たれたそうです。

 

 

再度天守台跡からの眺望を撮影。

 

後藤勇吉の碑。

延岡出身の冒険家で、飛行機による日本一周を初めて成功させた人物として知られています。

...しかし1928(昭和3)年、勇吉は太平洋横断飛行にチャレンジしたものの、飛行機が墜落して佐賀県で亡くなりました。

 

(´;ω;`)ウッ…

 

この曲がりくねった道もまた、敵兵の侵攻に備えて少しでも敵の足止めを図り、簡単には城に攻め入れないようにした工夫です。

このテの道は、日本のどんな城にも標準装備されているでしょう。

 

おそらくは通行の邪魔になっていたであろう大きな枝をカットした樹木。

...しかし切り口を見るに、ここまで枝が大きく生長するまで放っておいたのか...??

 

...いうわけで、延岡城の見学を終えました。

 

【おまけ】

 

城外に、こんなかわいらしいキリスト教会が。

素っ気ないデザインですが、信者の拠りどころとして・そして幼稚園も兼ねていますので子どもたちの学びと交流の場として、この教会は親しまれている模様ですね。

 

延岡城を観て回り、思うところがあります。

この城は戦前に昭和天皇の行幸を受けたのですが、その際に「千人殺し」を始めとして貴重な城郭遺構の数々が容赦なく改造・移築、果ては破却されてしまったのではないか?...と。

何しろ、「現人神」に粗相があってはいけない・そして「天子様」にご苦労をおかけさせてはならない、とばかりに、この時に延岡城の貴重な遺構が徹底的に大破壊されてしまったのではないでしょうか?

それこそ、実際にはなされなかった「千人殺し」の石垣崩落以上に、昭和天皇行幸の所為で延岡城の文化財・遺構の数々は徹底破壊されてしまった?というわけです。

...しかし、天皇の行幸があったからこそ、延岡城はその後に高齢者・体の不自由な方でもラクに登城することが可能となったのも事実です。

結果として、それでも良かったのかもしれません。

 

このように、歴史的遺構に関しては「文化財保護」と「バリアフリー」の葛藤が常に付きまとうものなのです。

 

次回のブログ更新は、場所を変えて宮崎県西臼杵郡日之影町を訪れた記事をお届けする予定です。

 

皆さん、次回んブログ更新を楽しみに待ってくんない!

 

(罵詈雑言・個人攻撃・誹謗中傷大歓迎!)

 

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