皆さん、おらのブログ閲覧してくなんしぇまして、どうも!

 

これより、私が盛岡で出会った近現代建築について、記事をお披露目します。

盛岡は、藩政時代に幕府側についていたために戊辰戦争後には政府直轄地となり、この地に住めなくなった士族は新天地を求めて北海道への移住を余儀なくされた者も多かったそうです。

それでも農民や職人・商人らはこの地に留まり続け、この地の経済を支えてきました。

Wikipedia先生をカンニングしてみましたが、盛岡の地は鉄道開業以前は近江商人にルーツを持つ「北上派」という財閥が経済を握っていたそうです。

「北上派」は、主に舟運事業を手掛けていて、その流通ネットワークによりこの地で財を成したとか。

東北本線の開通により舟運の需要が減ると、勢い「北上派」は衰退しました。

その代わりに「金田一家」「糸屋(糸治)中村家」などの巨大企業グループが台頭。

明治・大正期のこの町は、どうやらサイバーパンクSFでよく見られる

「巨大企業が市政を支配する未来都市」

のようなものだったらしい。

建築に関してはどうか?と申しますと、1890年に東北本線が盛岡まで開通するのに乗じて、この町は一挙に洋風建築・近代建築の「展示場」のような様相を呈することとなりました。

今でもその洋風建築・近現代建築は、一部が遺されて市民の憩いの場に・もしくは生涯学習の場として親しまれています。

 

それでは、盛岡に遺される近現代建築の数々を、とくとご覧ください↓!

 

先ずは「開運橋」。

1953年に竣功された鉄橋です。

この橋には「二度泣き橋」という異名があり、それは首都圏から盛岡に来た転勤族がこの橋を渡る際に「遠くにとばされた」と嘆いては泣き、転勤期間を終えてこの町を去る時に離れるのが辛くて泣く...というもの。

只、東北新幹線が開業して以降、東京は岩手から見ても日帰り圏となりましたので、このエピソードも時代遅れなのですね。

 

農林會館。

青いタイルが印象的。

1966年築の高度経済成長期のスタイルで、今でも威風堂々とこの町に聳え立っています。

 

岩手日報本社社屋。

この新聞社は、県内では朝日・毎日・読売をも圧倒する発行部数を誇るとか。

しかし、景気低迷により夕刊の発行は休止となっています。

これまた「昭和」の残り香のする、ノスタルジックなビルですね。

1962年築。

 

 

コチラの2軒の写真館、道路を挟んで向かい合わせに建つものです。

それぞれ「ライト写真館」「佐藤写真館」と言います。

佐藤写真館の方が1年古く、1928年の築・ライト写真館はその翌年に竣功されました。

どちらも瀟洒な洋館ですね。

 

郵便局。

私も疲労が溜まってブログ執筆もしんどいので、詳細は省きます。

 

コチラの医院は、どうやら昭和の高度経済成長期の築と思われます。

 

上盛岡駅。

山田線に所属する駅です。

Wikipedia先生をカンニングしましたが、開業年の記述はあれど駅舎そのものの竣工年の記述が無い。

1998年に無人化されたとのことですので、この簡素な駅舎はその頃に建て替えられたのでしょう。

 

古びた町屋。

このような木造の町屋が随所に観られるのが、盛岡の良いところです。

 

岩手医科大学1号館。

葛西萬司という建築家の設計のよるもの。

葛西は、辰野金吾と共同で建築設計事務所を運営していました。

この建物は、葛西が辰野と組まずに独立で建てたもののようです。

1926年築。

 

岩手県庁本庁舎。

1965年竣功の、意外と古めの庁舎です。

竣功から60年を経ようとするとは思えない、現代的なビルですね。

 

 

岩手県公会堂。

昭和天皇の成婚を記念して建てられた公会堂です。

考えてみると日本国民も逞しいもので、皇族の婚約すら業界活性化のダシにしています。

当時の人々のバイタリティ、今の日本人も見習うべきかも...???

1927年築。

 

旧盛岡市消防組第四部詰所。

ガイドブックではお馴染みの、盛岡市のランドマークです。

かつては、ここで活動する消防団の男たちが女性にモテたのでしょう。

けれども今では、農山漁村の消防団は敬遠されています。

高々と鐘楼を構える詰所にて、男たちが命を張って防災に努めたのも「今は昔」のお話です。

1913年竣功。

 

 

茣蓙九。

幕末~明治末にかけて増改築を繰り返した商家です。

江戸時代~明治時代の、それぞれの時期に流行した様式を取り入れた建築史的にも貴重な建物です。

 

盛岡信用金庫。

ギリシャ建築の様式を取り入れた銀行建築。

1927年竣功。

 

もりおか啄木・賢治青春館。

旧第九十銀行本店です。

設計は、当地出身の横浜勉という建築家で、様式としては「ロマネスク・リバイバル様式」に分類されます。

1910年築。

 

旧盛岡銀行本店。

東京駅と同じく辰野金吾の設計によるものですが、共同名義として前述の葛西萬司も拘わっています。

先ほど書きそびれましたが葛西萬司は盛岡市出身で、辰野も「地元の気候・風土は、やはり地元の人間にしか分からない」という考えがあってなのか、葛西と共同でこの銀行を建てたのかもしれません。

1911年竣功。

 

この建物は...???

残念ながら、私もサイトをいろいろ漁ってみましたが詳細が判明しませんでした...

 

(;^_^A

 

さて、私も初めての東北旅行でしたので、盛岡市にここまで多くの近現代建築が遺されているとは及びもつきませんでした。

この地に遺される明治・大正・昭和初期、そして高度経済成長期の建築の数々に対しては、地元民の方々は「観光名所にしよう」なんて、これっぽっちも思っていないはずです。

地道に使用を続けて、老朽化した・バリアフリーにそぐわなくなった...となれば、改修を施して他の用途に転用し、引き続き使用を続けた結果、たまたま「遺された」のです。

翻って、わが福岡県は門司港ではどうでしょうか?

あの街、行政も市民もなりふり構わず「まちづくり」と称するカネ儲けに奔走し、ハコモノばかりを大量に建てた挙句に、肝心の近代建築はどんどん解体されています。

「建築」は、観光やカネ儲けの道具ではない。

ましてや観光客の「インスタ映え」のネタでもない。

門司港で「まちづくり」に携わる全ての方々(市民・行政・企業・有識者etc.)は、盛岡にて観光名所とされているわけでもない、只々街角に佇み市民に淡々と利用され、親しまれている近代建築のあり方から何がしかを学ぶべきでしょう。

 

次回のブログ更新は、9月にずれ込みますが「文学フリマ岩手」で味わった食の数々をテーマ:フードポルノにてお届けする予定です。

 

皆さん、楽しみに待ってくなんしぇ!

 

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