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「文学フリマ岩手」ついでの旅第二弾・盛岡城の散策記を、これよりお届けします。

出向いた当日の2022/06/18(土)ですが、天気も快晴・気温もほど良い・湿度もカラッとしている、まさに絶好の行楽日和でした。

私は早朝から自転車を走らせて市内各地を回ったのですが、その最中で盛岡城だけは流石に自転車で走るわけには行きませんので、駐車場の片隅に自転車を停めて登城しました。

この日は軽装で荷物も少なめにして、燦燦と降り注ぐ陽光の中にて快適な外の環境を満喫しましたわけです。

ちなみに私が旅行で街歩きやレンタサイクルでのサイクリングに繰り出す際には、ショルダーバッグ・ポーチ3種類(旅行関連メモ収納+スマホ収納用・創作関連メモ収納用、並びに財布の収納用)・自作著書(同人小説・旅行記)、そして旅の相方としてスマホで建物とのツーショットを撮影するためのお人形さんを携行しています。

 

さて、ここでWikipedia先生をカンニングしまして、盛岡城について予習。

盛岡城は江戸時代、この地を統治していた南部氏の居城でした。

その前身は不来方(こずかた)城であり、不来方城を拡張する形で盛岡城が築かれました。

築城年は1598年。

分類としては「連郭式平山城」となります。

東北地方には、土塁を積み上げた城郭がよく見られます。

しかし盛岡城の石垣は花崗岩で構成されており、これは東北の城郭の中では珍しい部類になるとか。

明治維新と廃藩置県を迎えて、この城郭も日本の城の例に漏れず主要な建物は洗いざらい解体されてしまい、運よく解体を免れた遺構も一部は寺院や商家に移築されました。

現在、盛岡城は威風堂々とした石垣のみが往時を偲ばせています。

 

盛岡城の詳細は、写真と共に解説いたします↓!

 

先ずは城の外周を取り巻くお濠。

今なお水を湛えており、散策路は市民のウォーキングのルートとなっています。

 

コチラの何も無い台座ですが、戦前には南部家42代当主・南部利祥(なんぶ・としなが)を顕彰した銅像が鎮座していました。

利祥は日露戦争時に陸軍中尉として従軍し、満洲にて戦死しました。

死後、利祥の栄誉を称えるために、旧森岡藩士等のはたらきかけでこの地に銅像が建てられたものの、アジア・太平洋戦争時の金属類回収令により銅像は溶かされて兵器の材料とされたそうです。

そして利祥の銅像は、今なお再建されていません。

...しかし像が再建されたとしても、それは「戦争の忌まわしい記憶」でしかないわけで...。

 

天守閣跡からの眺望。

 

 

 

太鼓橋とその両脇。

こういう「陸橋」的な場所、城郭巡りで一番好きかも...?

 

手許に資料がありませんので(パンフレットを何処かに置き忘れた)詳細は分かりませんが、とにかく石碑。

陽光を背後にして撮りましたので、我ながら印象に残る写真となりました。

 

方向指示板。

 

石川啄木の句碑。

詳しく見てみますと、このような句です↓。

 

不来方の城の草に寝ころひて

空に吸はれし

十五の心

 

啄木

 

こうして城址の開けた場所から市街地を眺めると、盛岡の市街地は随分現代的ですね。

「こんな画一的なビルだらけの景観なんて、本当の東北じゃない!素朴な田園風景こそが東北の本当の姿!!」

...などと憤られる方はおられると思いますが、そのテの意識ばかりが高い人は、東北を「都会人のためのテーマパーク」としか看做していないのですよ。

 

写真中央の青い建物は「農林會館」。

後日、詳細を解説します。

 

記念碑。

石川啄木を顕彰したもので、文面は以下のようなものです↓。

 

一九五五年秋

啄木生誕七十年を

記念して

 

先ほどの太鼓橋を、別の視点から見上げたところを撮ります。

 

確かこれは...???

宮澤賢治を顕彰しての石碑だった?かと。

 

瀬川正三郎先生の胸像。

盛岡出身の柔術家として知られる人物です。

また、正三郎は柔道整復師としても知られており、子どもや生活困窮者には無料にて施術を行っていたとのこと。

その徳を称えて、1972(昭和47)年の死去後にこの地に像が建てられたのです。

 

 

↑2点の岩は「残念石」と呼ばれています。

盛岡城築城の際、楔(くさび)を打ち込もうとしても、どうしても割れなかったために仕方なくそのまま放置された岩だそうです。

 

緑豊かな城内と小川。

春には小鳥のさえずり・秋には虫の鳴き声で、ここを散策される市民の皆さんも、日々の生活で疲れた心を癒されているのでしょう。

 

散策の途中、クロネコが寝転がっているところに出くわしました。

人類が造成したこの城郭も、ネコにとっては「車に轢かれる心配のない、安心して獲物の小動物にありつける場所」でしかないのです。

 

ラスト1枚の写真は、盛岡城の石垣で。

上で述べた通り、このような立派な石垣は東北地方の城郭では珍しいものとされています。

しかし、戦後の「復興天守」ブームの際に、歴史考証も無視して土塁ではなく石垣を積んで「復活」した東北の城郭も多いのではないでしょうか?

 

ところで、私が唯一嗜んでいるゲームは『御城プロジェクト:RE』というものです。

「城郭擬人化ゲーム」ですが、盛岡城も例に漏れずバッチリ人間の姿にされています。

ゲームによると「好物は南部せんべいとわんこそば」「大人びた落ち着いた性格」だとか。

 

それから、歴史に「もしも」は禁物と言われますが、私はその「歴史のもしも」を考えることが、しばしばあります。

この城址を散策していて思いました。

 

「もしも征夷大将軍が天皇の代理で日本を統治する役職ではなく、蝦夷討伐軍総司令官のままであったら、この城郭はどうなっていたのだろうか?」

「ヤマト王権と蝦夷との間の異文明間戦争が幕末まで尾を曳いていたら、盛岡城はどんな形態となっていたのだろうか?」

 

などと。

おそらく、そんな場合は盛岡城も日本全国で見られる城郭と同じスタイルではなく、アイヌのチャシ(城砦)によく似た形となっていたかもしれません。

 

次回のブログ更新は、盛岡の近現代建築を特集した記事をお届けします。

 

皆さん、楽しみに待ってくなんしぇ!

 

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