皆さん、俺のブログを閲覧してくれよましてありがとうございやす!

 

「文学フリマ東京」ついでの旅・第二弾の写真を、これより公表いたします。

テーマは鉄道探訪にて、高尾山登山電鉄(ケーブルカー)の試乗記。

「文学フリマ東京」イベント開催日の翌日の2022/05/30(月)に、行ってまいりました。

...しかしよくよく写真を振り返りますと、電車よりも門前町の光景の方を、より多めに撮影していましたね。

但し、本記事のテーマは「鉄道探訪」ですので、ここでは車両・車窓風景・駅舎をメインに写真をご紹介します。

 

高尾登山電鉄は、八王子市高尾山にてケーブルカーとリフトを運営している鉄道事業体です。

創業は1921(大正10)年。

本業は鉄道事業ですが、その他にも食堂(ビアガーデン)・展望台・動植物園・賃貸マンション等、多角経営を手掛けています。

この事業体は、高尾山薬王院の27世貫主・武藤範秀の発案によって実現されたと言われていますが、定かではないようです。

大正時代当時、薬王院の信徒は30万人を擁していましたが、なにぶん高尾山の山頂に寺院が所在するので信徒もおいそれとは参拝に出向けない。

そこで範秀は、この地に信徒が険しい山道を登ることなく参拝できるような鉄道の敷設を浅川村(現・八王子高尾町)役場に訴え、さらにインドやヨーロッパまで出向いて現地のケーブルカーを見聞しました。

そして1921年に「高尾索道株式会社」が設立されましたが、ここからが苦難の道でした。

高尾山の森林は宮内省の管轄でしたので、樹木の伐採には煩雑な手続きを必要としましたし、当時は技術的にも未熟な状態だったので、その点に不安を感じる出資者も大勢いました。

さらに、関東大震災による被災で駅予定地が崩壊してしまい、経路を変更せざるを得ないというアクシデントも発生したのです。

1927(昭和2)年、会社設立から6年かけて、ようやく開業に漕ぎ着けたケーブルカーですが、昭和の大恐慌・戦時中の不要不急の路線としての営業停止と、この事業者の歩んだ道は平坦ではありませんでした。

しかし、終戦後に営業が再開されて、こうして今は波乱に富むことなく薬王院の参拝客を運び続けているのです。

 

...前置きが長くなりましたが、写真をご覧ください↓!

 

スタート地点。

京王電鉄高尾山口駅です。

前書きで書きそびれましたが、高尾登山電鉄も京王グループの傘下企業のひとつです。

 

 

ここでちょろっと、薬王院門前町の風情をば。

 

ちょっと離れた場所から、ケーブルカーの麓駅を望みます。

とんがり屋根の印象的な、メルヘンチックな駅ですね。

 

ピントの合っていない写真となりましたが、こちらは2008年に導入された4代目ケーブルカーの姿です。

21世紀になって導入されたとは思えない、どちらかと言えば「昭和テイスト」の車両ですが、これでも最新鋭の電車です。

 

09:00に上りの車両が出発しますので、私も並んでみました。

 

 

 

車両がやってきました。

黄色とオレンジの車両が「もみじ号」・これとは別に黄色と緑の塗装が「あおば号」と名付けられています。

 

 

車両内部。

高尾登山電鉄は、日本一勾配の急なケーブルカー路線と言われており、車両もそれに合わせて斜め具合の急な構造となっています。

 

車窓風景。

本当は、走っている最中の光景もご紹介したかったのですが、なにぶん走行中なのでどうもピントが合わずにぼやけたモノばかりになってしまいました。

...というわけで、走行中の写真は1枚のみとさせていただきます。

 

山上駅に到着!

 

山上駅の全景。

駅名は「高尾山駅」となっています。

 

展望台から路線を見下ろした光景。

こんな構図の写真を撮影することが、私は好きです。

 

 

しばらくの間、展望台等でのんびりと過ごしては周囲の絶景を撮影した後に、再度麓駅へと向かいます。

この時は「あおば号」に乗車したのですが、写真を撮ればよかった...。

 

登りゆく「もみじ号」とすれ違い。

私は「ケーブルカーがすれ違う構図」を、なるべくなら撮影することとしています。

行きの時は撮影が乗車位置の関係で、写真撮影が叶いませんでしたが...。

 

...というわけで、戻って参りました!

この後、私は老舗の店舗にて蕎麦や汁粉を満喫してまいりました。

その成果は、テーマ:フードポルノにて今回の旅の総括的にご紹介します!

 

帰りしなに撮影したのが、こちらの『ヤマノススメ』のパネル。

高尾山口駅改札内にて、今回の鉄道探訪と門前町散策の帰りを「彼女ら」が見送ってくれました。

 

さて、寺社には「門前町」が付きものですが、それらの街並みの歴史で古いものはほとんど存在しない、と言っても過言ではないでしょう。

「太閤検地」により表向きは荘園制度は消滅しましたが、それでも寺社の所有する農地は存続し、百姓の年貢をまとめて徳川幕府に納める神社仏閣は多かったのです。

つまり、江戸時代までは門前町を形成しなくとも、寺社は存続には何ら困らなかった。

それが明治以降、年貢ではなく直接金銭での納税が必要とされると、農民が寺社のための「財産」とはならないので、寺院等の維持・管理にたちまち困ることとなってしまったのです。

しかし、その際の「渡りに船」が鉄道でした。

それまで、何らかのご利益に授かるには、「修業」さながらに野を超え山を越えて寺社に参拝する必要がありました。

ところが、全国各地に鉄道が敷設されると、労せずにお参りすることが可能となり、当然ながら江戸時代とは比べ物にならないほど大勢の参拝客が有名な神社仏閣を訪れるようになったのです。

とすると商売人の中には、

「有名寺社の近辺に飲食店や旅館を出店すればボロ儲け間違いなし!」

と踏む聡い人もいるわけで、かくして、日本全国津々浦々の有名寺社の、特に鉄道駅周辺には門前町が形成されるようになりました。

そしてそんな商売人を氏子・檀家として組織することで、寺社は明治以降も特権を失わず、堂宇や社殿の維持・管理を続行できたのです。

おそらくは高尾山薬王院界隈の門前町にも、ケーブルカー敷設に際しては同様の経緯があったのでしょう。

 

次回のブログ更新は、「文学フリマ東京」ついでの旅(其の参)として、少しだけ散策した八王子界隈の記事をお届けします。

 

皆さん、楽しみにお待ちくれっ!

 

(罵詈雑言・個人攻撃・誹謗中傷大歓迎!)