皆さん、俺のブログを閲覧してくれよまして、ありがとうございやす。

 

...方言変換アプリを使って標準語から江戸弁に変えてみましたが、どうも文章が不自然ですね。

さて、私は先の2022/05/29(日)に、「文学フリマ東京」に参加しまして、自作小説を頒布してまいりました。

「文学フリマ」に参加する際に、私が楽しみとしているのが旅行・街歩きです。

今回、私は長瀞・高尾山・八王子を散策しましたので、その成果(=写真)を順次ブログに掲載いたします!

 

第一回目は、埼玉県の長瀞(ながとろ)という長閑な田舎町の探訪記(2022/05/28)です。

Wikipedia先生をカンニングして、少しばかりこの町の概略を説明。

この町は、江戸時代には幕府領の「本野上村」「中野上村」「野上下郷村」という名で、合わせて「野上三郷」と呼称される農村地帯でした。

明治期の廃藩置県後には所属する県が幾度か変わりましたが、最終的には埼玉県に落ち着いています。

「長瀞」という名称は、意外にも新しく名づけられたものであり、1972(昭和47)年に国の名勝地から採られたものだそうです。

興味深いことに、この町には路線バスが1路線も存在しないとか(2019年の情報)。

勢い、住民の皆さんは移動に際しては、鉄道(秩父鉄道)もしくはタクシーを利用されています。

また「長瀞」という地名ですが、「瀞」の字はJISコードには採用されていないために、一部のパソコンやスマートフォンでの表示は「さんずいに静」となるそうです。

 

...というわけで、早速写真をご覧になられてください↓!

 

スタート地点の長瀞駅。

1911(明治44)年に開業し、今なおほとんど変わらぬスタイルの駅舎です。

この駅は「関東の駅舎百選」のひとつにも選定されています。

けれども、開業から100年以上も経ているにも関わらず、この駅舎は文化財には指定されていません。

私の邪推ですが、長瀞駅駅舎が文化財になっていないのは、仮に文化財に指定されると駅舎を永久に保存しなくてはならない、将来の解体・新築を行うには文化財指定なんてありがた迷惑なだけ。

...という、秩父鉄道の思惑がはたらいているのかもしれません。

 

一本杉稲荷神社。

無人の小さなお社です。

由来記のパネルを写真に撮影して確認しましたところ、このお社の起源はそれほど古くなく、昭和初期にこの地に住んでいた村田佐七という人物の夢枕にお稲荷様が顕れ、ここに生えていた杉の巨木を祀るように、というお告げがあったそうです。

そこで佐七は、お告げの通りにこの地に稲荷社を建立したとか。

以来、小さいながらも霊験あらたかで詣でる人の絶えない、住民の皆さんにも親しまれるお社として今に至っているとのことです。

 

銘石店「木の下」。

名石ではなくて「銘石」。

宝石というよりも、庭石等の販売を手掛けている店舗らしい。

 

長瀞サル劇場。

どうやら、猿回しの一座のようです。

「猿回しは動物虐待!」

...と憤る方々の見落としがちな点は、この職種が基本的に「被差別民の職業」ということなのですね。

即ち、猿回しを批難していたつもりが、何時の間にか差別の再生産に加担していた...ということになりかねない。

要は、ヴィーガンの物言いが「屠畜業者への差別」に直結してしまう危険性と常に隣り合わせになっているようなものです。

しかし、私もこんなことをブログの記事に載せていいのか?

ご指摘があれば、この部分を削除or訂正します。

 

長閑な菜の花畠。

「桃源郷」とは、このような地のことを指すのでしょう。

ところで、私が個人的にこだわっていることですが、「畑」は野菜を植える場所・「畠」は花卉(かき)を植える場所、という具合に使い分けています。

只、これは飽くまでも私自身の勝手なこだわりに過ぎませんので、拙ブログをご覧の皆さんは気にせずに野菜を植える場所も花を植える場所も双方とも「畑」という漢字(国字ですが)を使われて何ら差し支えございません。

 

旧新井家住宅。

「旧」と「新」の両方の漢字が入っていて紛らわしいですが、この家屋は建てられて300年は経とうとする歴史ある住宅です。

元々は養蚕農家の住宅でしたが、今現在は資料館共々保存されて、こうして「第二の人生」を歩んでいるわけです。

以前は長瀞の町役場付近に所在していましたが、国の重要文化財指定を機に、閑静な竹林のある土地に移築されました。

...しかし、この光景があまりにも似つかわしいですので、建設当初からこの住宅が「竹林の中に佇む庵」であったかのような誤解を招きそうです。

「文化財行政周辺の泥臭い話」は、まとめの部分にて記述します。

 

旧新井家住宅附属の厠(かわや)。

要するに便所です。

これも文化財の一部ですので、現在は使用できません。

 

家屋内部の写真も撮影しましたが、どうも光量が足りない所為か、ぼやけた写真ばかりになってしまいました。

只、この五右衛門風呂は、なかなか「映える」ものでした。

この辺り限定の文化かもしれませんが、どうやら明治期あたりの長瀞の豪農の間では、土間の一部に風呂釜を設えていた模様です(ここで「明治期」と私がわざわざ書いているのは、江戸時代の農村地帯に「風呂文化」が根付いていたのか?疑わしいからです)。

 

ここでもう1枚、別の角度から住宅を写した写真を。

緑豊かな光景の中、ひっそりと埋もれるように佇む古民家、なかなか絵になります。

 

旧新井家住宅を出て、緩い坂道を上った場所に佇む「寶登山(ほどさん)神社」。

日光東照宮に引けを取らないほど、煌びやかな装飾が施されています。

伝承によると、ヤマトタケルノミコトが東国を平定しようとして登山をしていたところ、山火事に巻き込まれるも山狗(やまいぬ)に助けられて一命を取り留め、それ以降この山を「火止山」と名付けたそうです。

それが何時しか「寶登山」と称されるようになったとか。

ブログを執筆中に「はた」と思い当たりました。

「ほと」は、元々女性器を表す古語です。

性的なものを大っぴらにするのは「下品」とされる儒教道徳が支配的になるにつれて「この名称はマズい」という空気となり、火止山もその煽りを喰らって「寶登山」という名前に誤魔化されるようになったのではないか?と。

民俗学的・言語学的にはどうか?という問題は、既に解決済みかもしれませんが...。

 

こちらの小さな祠も、かわいらしいですね。

 

寶登山神社から下って、再度駅前へ。

こちらの射的場ですが、私の憶測では地元のヤクザのおっちゃんのシノギではないか?と。

「銀次」という店名からして元々渡世人として修羅場を見てきたおっちゃんが、斬った張ったの末にこの地に落ち着いて、合法的に射幸心を煽る店を開業した...というストーリーが想像できてしまう。

間違いがございましたら、すぐさま記事の訂正に応じます。

 

SLパレオエクスプレス。

長瀞は「SLの聖地」でもあります。

この日もSLが走るとあって、大勢の「撮り鉄」で溢れかえっていました。

...というか、到底「撮り鉄」には見えない老若男女もまた、スマホを取り出して熱心にSLの写真を撮られていましたが...。

私もこの場の熱気に圧されましたが、このように↑自分もしっかり車両を写真に収めています。

やはりSLには、人の心を狂わせる「魔物」が潜んでいるのでしょう。

 

どうやらこの店舗、かつては夏にかき氷・冬には「回転焼き」(福岡での呼称)を販売していたらしいですね。

今現在、店構えはそのままで射的場となっています。

よくよく見ると店名も「銀次の店」。

前述の射的場の経営が思いのほかに好評を呼んだらしく、店主がその余勢を駆って二号店を開業した模様です。

 

 

岩畳。

戦前から国の天然記念物として有名な場所です。

自分のFacebookの書き込みを振り返って記述しますが、この地は結晶片岩が隆起・浸食を受けて形成されたとか。

地質学的に稀有な光景ですので、これまで国内外の鉱物学者・地質学者の「巡礼地」となってきたらしい。

岩畳は「名勝」として有名でしたので、戦前よりこの絶景を一目見るべく日本中(当時植民地だった朝鮮半島・台湾・満洲含む)から観光客が訪れていたのです。

 

おそらくは、地質調査・もしくは鉱石調査のために穿たれたと思しき穿孔の跡。

 

岩畳で私が最も「エモい」と思った場所は、コチラの岩石の間を流れる小川です。

要は「石清水」ですが、この光景、もっとコンパクトデジカメで写真に撮っておけば良かった...。

Facebookには、バッチリとこの「石清水」の流れる様を掲載しているのですが。

 

...というわけで、岩畳を後にします。

 

ラスト。

長瀞駅に戻って参りました。

 

長瀞の町は、正に「文化財の宝庫」とも言えます。

郷愁を誘う駅舎や古民家・由緒あるお社、そして景勝地と、この町には多彩な文化財が随所に見られ、それらが観光客のみならず学術関係者をも魅了すると言いましても過言ではないでしょう。

しかし、私も大学院で民俗学と文化財学を齧りましたので言えますが、「文化財保護」というのは時に泥臭い側面をも垣間見せます。

長瀞駅の駅舎が、どれほど歴史があって建築史的にも貴重なもの?にもかかわらず、文化財指定を受けてこなかったのは何故か?

「災害で長瀞駅の駅舎が破損した場合、これ幸いと今の駅舎を解体して現代的・便利でバリアフリーも行き届いた駅舎(今の駅舎は車イスでもラクに通行できますが)に新築してしまおう!」

...という、秩父鉄道の思惑が透けて見えます。

また、旧新井家住宅も保存の気運が軌道に乗らなかった場合、所有者が莫大な相続税を支払いたくないがために、文化財指定の話が浮上した途端に急いで解体されたかもしれません。

他の文化財も似たようなものです。

人間の都合で生み出されながら、その人間の損得勘定や利便性・もしくは時代に合わせる等の身勝手な理由で保存されたり解体されたり名前を変えられたり...と振り回されるのは、「文化財」の数々にとってはいい迷惑でしょう。

 

次回のブログ更新は、テーマ:鉄道探訪にて高尾山ケーブルカー試乗記・そして門前町散策記をお届けする予定です。

 

皆さん、楽しみにお待ちくれっ!

 

(罵詈雑言・個人攻撃・誹謗中傷大歓迎!)