2021年夏の青春18きっぷ旅第三弾。

今回は2021/07/25(日)、荒尾市電巡りと玉名市グルメ堪能の直後に赴きました湊町・高瀬を輪行した記事をお届けします。

 

高瀬町は江戸時代、細川藩領内(現在の熊本県)の制定した「五ヶ町制度」において、城下町熊本に準ずる町のひとつでした。

この町は、肥後の各村から年貢米を集め、それらを大坂まで運ぶための舟運の要だったとか。

かつて、この川湊の町では豪商たちが自治を担い、また、沖仲士たちが重い米俵を担いでは舟に搭載し、そして船頭たちが有明海を目指してそれらの舟を巧みに操っていました。

現在の街並みは、幕末・維新期の戦火や打ち毀しを経た後、明治時代に形成されましたが、今なお江戸時代の繁栄の名残を垣間見せる、落ち着いた景観を形成しています。

ちなみに熊本・高瀬と並ぶ他の町は、高橋(熊本市西区)・川尻(熊本市南区)・八代です。

 

それでは、写真をご覧になられてください↓!

 

先ずは玉名駅から。

ごく普通のJR駅という体裁です。

しかし明治時代に鉄道が開通し、この地も交通の利便性が飛躍的に向上した結果として、高瀬町の重要性が低下したと言えます。

 

繁根木川を渡った場所にある細長い物件。

何やら興味深い建物でしたので、思わずカメラのシャッターを切りました。

 

これまた窓枠の印象的な建物ですね。

何かのショップの様子ですが、現代風レトロといった感です。

 

さて、ここから高瀬の街並みを拝見します。

古い商家、ちらほらと遺されていますね。

 

ちょっと「ごちゃっ」としている景観ですが、江戸時代・明治時代に「美しい都市景観を守ろう!」という認識など誰も持ってはいなかったと思います。

写真↑の統一感のない街並みも、結局は住民の方々の選択の結果が顕れたに過ぎないのでして...。

 

 

 

 

街をつぶさに観て回りますと、多少は統一感を示す街区もあれば周囲が空き地になって取り残された家屋もあります。

高瀬の街並み保存、行政でも市民有志でも良いですから本腰入れて取り組まれては如何だろうか?

 

舟運の要である「裏川」という水路。

この水路で、かつては沖仲士や船頭たちが米俵を運んでいました。

彼らの信仰を垣間見せる祠が、護岸に隠れるようにひっそりと佇んでいます。

 

その後も写真を撮影。

この場所は、高瀬でも街並みの端の方に位置するらしいですね。

 

伝統的な商家と対照的な、巨大な商業娯楽施設。

娯楽施設的な「悪所」は、かつては風紀を乱すということで市街地とは隔離して建てられることが多かったそうです。

現在でも風俗店は、一カ所に集中する傾向があります。

しかし、カラオケボックスなどは規制が緩いので、勢い景観をぶち壊しにするものが商家の解体後に建てられやすいのですね..._| ̄|○

 

モルタル造りのレトロ建築。

「商家の建ち並ぶ街並み」で、ギリギリ許容できる建物が「洋風建築」「モルタル造り」と言えますね。

 

 

にしても高瀬の街並み、確かに文化財級の商家は数多く遺されていますが、如何せん、統一感がありません。

更地になった場所を埋めるように、擬商家風建築を建てる・もしくは景観にそぐわない建物で、古いものを思い切って解体する等しないと、折角の文化財的な街並みもどんどん失われるのでは...?

 

呉服屋さんのビル。

私は京都等で「ビルにされた呉服屋」を見慣れている所為なのか、呉服屋は商家よりはむしろ、現代的なビルの中にあった方が様になる感じがするのですね。

この点に関しては賛否両論、というよりも「否」が圧倒的に多いかもしれませんが...。

 

さて、裏川沿いを輪行している最中、急な腹痛に襲われましたので、私は慌ててトイレを探しました。

写真↑のささやかなデパート?に駆け込み、トイレをお借りして事なきを得ましたが、後になって私が自転車を停めた裏川の橋のたもとに公衆トイレがあることに気が付きました。

ともあれ店員の皆さん、おトイレありがとうございました!

 

裏川に架かる目鏡橋。

江戸時代、豪商たちは交通の便を図ると同時に財力を誇示することも兼ねて、水路に石造りのアーチ橋を架けることが多かったそうです。

中には、お上からの命令で無理矢理カネを吐き出させて、公共工事を任された商人もいたかもしれませんが...。

 

コチラの建物、一階部分が如何にも「昭和」という感がしますね。

古いと言いますか、ノスタルジーを感じると言いますか...。

 

恵比須様を祀っている祠。

このテの小さな祠には、記紀神話には記されていない、地元土着の神様が祀られていたことが多かったそうです。

しかし、明治初期の廃仏毀釈運動に紛れて、そうした土着の神様も「日本神話に登場する神々」に紐づけされ、ヒドイ場合には存在自体が抹消されたのです。

この祠も、あるいは「記紀神話」には一切記述の無い神様を、かつては祀っていたのかもしれませんね。

 

さて、今回高瀬を輪行で廻ってみたのですが、上↑でも度々言及しているように、この川湊の街並みは非常に「残念な景観」となっています。

しかし、江戸時代・明治時代のこの町の住民は、別段「美しい街並みを形成しよう!」「統一感のとれた景観を形作ろう」という認識なんて、これっぽっちも持ってはいなかったでしょう。

当時は当時で、住民の皆さんは「機能的な街並み」を追求し、それがたまたま現代人の目から見ると「美しい街並み」に映るだけなのです。

とすると、川湊としての「機能」が失われた現在、高瀬が街並みとしての統一感も美的景観も失ってしまったのは、ある意味当然の帰結だったのかもしれません。

 

次回のブログ更新は9月になりますが、JR山陰本線の鉄道旅・豊後高田「昭和の町」輪行記、そして大分交通宇佐参宮線廃線跡を辿ったルポを、随時投稿する予定です。

 

皆さん、今後も拙ブログ記事に、ご期待ください!

 

(罵詈雑言・個人攻撃・誹謗中傷大歓迎!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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