皆さん、新年を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか?

 

2020年最初のブログ記事として、昨年2019/04/13(土)に沖縄県那覇市に赴いた思い出記事をお送りします。

この日、私は火災により焼失する前の首里城(すいぐすく)を見てまいりました。

2019/10/31未明、首里城は火災に見舞われ、正殿他7棟が焼失するという痛ましい事件が発生しました。

火災の原因は、現在調査中とのことです。

今となっては最早、首里城を写真によって偲ぶしかありません。

 

それでは在りし日の首里城を、こちらにて公開します↓!

 

首里城に入る前に、私は龍潭(りゅうたん)という人工池の写真を撮りました。

Wikipedia先生によりますと、第一尚王統二代目国王・尚巴志の命によって、中国の作庭を参照して造成されたそうです。

琉球では尚巴志の統一以前から、本島でしのぎを削っていた三つの王国(北山・中山・南山)がそれぞれ冊封使を中国に派遣して、大陸の優れた文化・技術等を自国に持ち帰っていました。

第一尚王統による天下統一以降も、大陸との冊封関係は続き、それは大陸の王朝が明から清に、日本が戦国時代を経て江戸時代に入っても変わりませんでした。

龍潭もまた、そんな琉球と中国との関係の賜物といえます。

 

名前が分かりませんがこの鳥、私が近づいても飛んでいきませんでした。

よっぽど「人馴れ」していると見受けられます。

 

龍潭の(ほぼ)全景。

解説をし忘れていましたが、先ほどのお堂と石橋は、弁財天を祀った弁財天堂(べざいてんどう)、並びに天女橋といいます。

一見古そうに見えますが、お堂も石橋も沖縄戦で一度破壊され、現在の物は1968年に再建されたものだそうです。

また龍潭は、このお堂を境に円鑑池に分けられています。

単に「美しい」だけでなく、この池は首里城地下からの湧水や雨水を貯めておく、「貯水池」の役割も果たしていたのではないでしょうか?

 

ガジュマルの樹に埋もれるように佇むこちらの構造物は、ちょっと失念しましたが、沖縄戦時の戦跡のひとつらしいです。

琉球語で「ガマ」と呼ばれる沖縄各地に残る洞窟は、戦時には住民のためのシェルターとなるはずでした。

しかし、近年の古老の証言によりますと、日本の軍人が「赤ん坊が泣き止まないから」「日本語ではなく理解できぬ言葉(うちなーぐち)を使っているからスパイ容疑をかけられて」という理由で、住民を無慈悲に死に追いやっていることが明らかになっています。

結局のところ、日本という「国体」の前では、うちなーんちゅの方々は、正に「虫ケラ」扱いされていたのです。

 

こちらは「園比屋武御嶽石門」。

国王が外部に出向く際に、ここで道中の無事を祈願したそうです。

世界遺産にも指定されていますが、現在、首里城が立ち入り禁止になっていると思いますので何処まで見られるのか..?

 

守礼門。

尚清王の時代(1527年~1555年)に築かれた門で、現在の物は再建されたものです。

「守禮之邦」という扁額には、「礼節を重んじる国・琉球」という意味を込めているのだそうです。

この門は火災の被害を免れているとは思いますが...。

 

歓會門。

中国からの使者(=冊封使)を迎え入れるための門です。

 

こちらの湧水と小さな溜池は、龍の口から水が湧き出していることから「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれています。

 

広福門。

ここから本格的に首里城へと入ります。

 

今回の火災では、建造物のみならず樹木等も被害を被ったはずです。

写真は聖所・「首里森御嶽(すいむいうたき)」。

城内では礼拝所とされており、『おもろさうし』にも詠われている王府にとり重要な聖地です。

火災後に、新たな生命が芽吹いているといいのですが...。

 

南殿。

薩摩藩からの使者を迎える場所です。

日本式の建築なので、塗料などは使用されなかったそうです。

只、王府としては薩摩の武士よりも大陸からの使者の方が重要度も優先順位も高かったと思いますので、王府も役人も接待に携った貴族(士族=さむれー)等も、テキトーにチョンマゲ頭のやまとんちゅをあしらっていたのではないでしょうか?

 

いよいよ首里城正殿へ。

正殿は、「国殿」もしくは「百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)」とも呼ばれました。

「百の浦(村)を支配する御殿」という意味です。

大陸・日本の他に、琉球独自に発展した建築様式をもふんだんに取り入れ、豪華絢爛に仕上がっていました(過去形でしか表現できないのがツラい...)。

この建造物は、琉球最大の木造建築であり、国王が執務や重要な儀式を執り行う場でもありました。

今回の火災は、この正殿から出火したとのことだそうです。

被害が大きなものになった原因として、スプリンクラーが設置されていなかった・塗料が燃えやすいものだった等が指摘されています。

今となっては最早、首里城は廃墟です。

首里城は1453年・1660年・1709年、そして1945年の沖縄戦の時にも焼け落ちています。

今回、首里城は5度目の焼失となったわけです。

 

正殿から眺める庭園。

私は造園に関しては無学なのですが、それでも庭石の配置等に緻密な計算がなされていたことは解ります。

この庭園に植えられていた樹木もまた、先の火災の被害に遭ったことは想像に難くはありません。

 

首里城内の植生も、火災の被害に遭ったわけです。

しかしながら、植生にとっては次の命をつなぐことが重要であり、人間界で起きた今回の火災を嘆くこともないのでしょう。

諸行無常・生者必滅。

しかし、国破れて山河在り・城春にして草木深し。

 

こちらにも「ガマ」が遺されています。

沖縄戦により、首里城は徹底的に破壊され、住民も日本軍・米軍双方によって虐殺されました。

戦後の右派も左派もその反省はなく、尖閣諸島に莫大な石油が埋蔵されている可能性が出てきた途端に「沖縄を返せ!」と、日本人は居丈高にがなり散らすようになりました。

その結果、1972年に沖縄は日本に併合され、道路交通も強制的に左側通行に改めさせられました。

要は、中国ですら香港に対して強制しなかったこと(中国は右側通行・香港は左側通行)を、日本車を売りたいがために日本人はうちなーんちゅに対して強引に行ったわけです。

意図せずにうちなーんちゅの血を啜ることとなった「ガマ」は、このような日本人の愚かしさの象徴ともいえるでしょう。

 

首里城の石垣だけは、さすがに火災の被害を直接的には被ってはいないでしょう。

琉球の城郭は、日本の城とは異なり曲線を描いています。

また、巷でよく言われる「首里城は戦のための城ではなく海外からの使者を歓待するための城だった」というのも少々語弊があり、石垣をつぶさに観察すると戦の際の攻防にも適した構造になっているとのことです。

 

今回、首里城のパンフをカンペに使ってブログを執筆しているのですが、こちらの湧水?に関しては説明がありませんでした。

 

こちらの「久慶門」ですが、主に女官たちが出入りするための通用門として使用されていたそうです。

「この門について解説がパンフに載ってないな~」...と思っていたら、最後のページに小さく記事が載っていました。

 

このガジュマルも、たとえ焼け落ちていたとしても、そこから新たに芽吹く可能性があります。

自然というのは、人間が思っているほどか弱いものではありません。

「人間が自然を保護しなければならない」と、一部の方は使命感を持たれているのですが、それは人間自身の思い上がりでしょう。

 

ちょっと疲れましたので、ラストの写真の解説は割愛します。

 

さて、今となっては写真により偲ぶしかない首里城です。

今後、国内外から経済的な支援を受けて、場合によっては海外からの技術をも受け入れて、首里城が復活する日が来るかもしれません。

いつかきっと、首里城が再建されて、その美しい姿を再びうちなーんちゅの方々の前に現す時が来るでしょう。

しかし、おそらくはそれは、私の目の黒いうちは無理と思います。

 

首里城の焼失、そして京都アニメーション放火事件は、日本の防災の在り方に大きな課題を残しました。

建築行政・文化財行政、そして日本の防災行政に、この二つの火災事件は大きな爪痕を残したのです。

2019年(令和元年)もまた、後世に「日本史のターニング・ポイント」と呼ばれるのかもしれません。

 

そして個人的には、この時の沖縄旅行は「平成最後の大旅行」となります。

私も「平成最後の思い出作り」として、旅先に沖縄県那覇市の首里城・金城町・壺屋町を選んだわけです。

 

明日のブログ更新は、首里金城町を巡った記事をお届けします。

今年は皆さんにとり良い年になりますように!

 

(罵詈雑言・個人攻撃・誹謗中傷大歓迎!)