日本男子バレーボールチームを、東京、メキシコ、ミュンヘン
3度のオリンピックで、銅、銀、金メダルに導いて、その後も
バレーボールの発展のために、その全人生をそそいだ松平さんが
昨年、大晦日に亡くなっていたことが知らされました。
ここに、2冊の著書があります。
この本は、いわゆる松平一家と呼ばれた、当時のチームの
足跡を記した、記録本です。
毎月出版されていた「月刊バレーボール」という雑誌に
連載されていたものを、後に本にまとめたものでした。
このなかには、バレーに関することはもちろんですが、
松平さんが、何故こんなにバレーボールに人生をかけたのか
そのわけにもふれられていました。
若かりし頃の松平さんと、そのご家族の写真です。
真ん中に写っているのは、ひとり息子の康昌くん。
大きくなったらバレーの強い学校に行きたいと
話していたそうです。
通っていた塾で、黒部渓谷に行ったとき、康昌君は
事故にあいました。崖から転落し、病院に担ぎ込まれたのです。
長い闘病生活、戻らない意識、そんな中、松平さんは
全日本チームとともに世界選手権にも参加し、オリンピックの
出場権を得るためのアジア大会にも行きます。
そして、お父さんがオリンピックの出場権を取って帰国するのを
待っていたかのように、松平さんが帰国してすぐに亡くなったのです。
この本の中に、当時の松平さんの思いが書かれています。
「勝負の世界にいるだけに、人生と同じで絶対という言葉はない。
日本が金メダルを取れないまま終わるかもしれない。しかし
私は結果が悪いことはおそれない。悪ければ悪いなりに
覚悟している。」 「デットン(息子さんのニックネーム)、お前が
パパに教えてくれたんだよ。山から落ちて即死していたら
パパはこんな気持ちになれなかったかもしれない。
デットン、ありがとう」
こうして、松平さんと奥さまは、二人三脚で世界を相手に
戦いを挑んでいったのです。
康昌くんは、東京オリンピックで男子が銅メダルを取った後
自分の筆箱に、中央に日の丸、そして、2位と3位の位置に
チェコとソ連の旗を貼って、「早く日本もこうならないとね」と
お父さんに言っていたそうで、その筆箱を仏壇に供え
絶対に勝とうと誓ったということでした。
そのころの松平さんと、チームの方々です。
松平さんは、小さかったので、タイムアウトのとき、選手の中に
埋没してしまって、その姿が見えないことが多かったです。
私は、高校生の頃から、男子バレーが大好きで、2003年に韓流に
はまるまでは、バレー一筋でした。
だから、選手の身長、背番号、今でも覚えています。
長年応援していたので、バレーボール協会の松平さんから
「応援ありがとう」のお手紙をいただいたこともありました。
また、姉(私とは親子ほども年が上)が高校生のとき、バレーを
部活でやっていて、当時慶応大学の学生さんだった松平さんに
バレーをコーチしてもらったという話を聞き、それから私も
バレーに興味を持つようになったので、松平さんには、勝手に
親近感を持っていました。
豆大福が大好きだった松平さん、お母様が視力を失ったため
いつもこう言われて育ったそうです。
「私は見えないのだから、表情までわからない。
だから、言いたいことがきちんと伝わるように言葉の語尾を
はっきりと話しなさい」
松平さんの滑舌の良さは、そのせいだったんですね。
バレーボールの会場のコートが、今のように、コートの外と中が
きちんと色分けして、ジャッジしやすくなったのは松平さんの
おかげです。 会場で、何度となくすれ違ったことを思い出します。
本当にたくさんのお仕事をされ、バレー界に貢献された松平さん、
想い出がありすぎて、書き出したら止まらなくなってしまいました。
でも、このへんで終わりにします。
ありがとうございました。きっといつの日か、後輩たちがまた
世界で活躍してくれる日がやってくると思います。
私も、かげながら応援させていただきます。
負けてたまるか、あなたの代名詞のようなこの言葉、大好きです。
心からご冥福をお祈りいたします。