長良川の合戦―去り際を美しく | 歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

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「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、令和元年10月29日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第5弾として「長良川(ながらがわ)の合戦」について書きます。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

第1回 今山の合戦
第2回 耳川の合戦
第3回 沖田畷の合戦
第4回 小豆坂の合戦

『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の徳永真一郎氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

ということで、




今回はどういう戦いかというと、弘治(こうじ)2年(1556年)美濃長良川(みの・ながらがわ)岸〔岐阜県岐阜市(ぎふけん・ぎふし)〕にて斎藤道三と嫡子(ちゃくし)義龍との間に行われた合戦です。


美濃斎藤家について知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第17~18回―斎藤家の血族関係と永禄元年までの織田家

斎藤道三の登場する記事:
『麒麟がくる』第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い

同関連記事:
『麒麟がくる』第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽


「美濃の蝮(まむし)」斎藤道三は京都(きょうと)の油売りとして身を起こし、美濃に移って武家の婿養子となって家を乗っ取り、最終的に守護代(しゅごだい)の斎藤(さいとう)家を乗っ取ったのち守護(しゅご)の土岐(とき)氏を追放して美濃を支配しました。

参考記事:
大河ドラマを楽しむ方法(12)(『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回)

その時に旧主土岐頼芸の妾(めかけ)を側室(そくしつ)としており、その時その女性は頼芸の子を宿した状態で道三の下へ行ったため、その子義龍は本当は頼芸の子であるという説があります。

※実は昔の日本の性事情はいい加減なところがあったそうで、「妻が生んだ子供は全部おれの子供」というようなおおらかなノリだった可能性があります(傾向として)。そのためたとえ不義の子がいたとしてもそこには深く言及せず、男性は自分の子供として受け入れていた節があります(もちろん不倫し放題だったわけではないとは思いますが)。だから、この話の背景としては「本当は誰が誰の子供だかよくわからない」という前提があったのかもしれません(斎藤家の場合は不義ではありませんが)

これは当時から言われていたようで、義龍はそれを信じて実の父を追放した道三を討って美濃を土岐氏の下に取り戻そうとしたという説があります。

しかし、一方では耄碌(もうろく)した父を隠退させるためにやむなく挙兵したが、それが配下の兵にうまく伝わっておらず、誤って父を殺してしまったという話もあります。

真相はどうだかわかりませんね。

戦の経過です。
義龍は稲葉山(いなばやま)城にて弟たちを殺害したのですが、それを受けて道三は稲葉山城の城下を焼き払って長良川を渡って鶴山(つるやま?)に陣を張りました。
道三としては美濃の諸将は自分につくと思っていたようですが、結局、2700人ほどしか集まらず、大半の1万7000人が義龍の下に集まったといわれています。
義龍の方が人望があったのですね。


関連記事:
『麒麟がくる』第15~16回―織田一族の関係性と斎藤新九郎高政の重臣たち

斎藤義龍(高政)の登場する記事:
『麒麟がくる』第19~20回―足利将軍家の動きと桶狭間の戦い


衆寡敵(しゅうか・てき)せず、結局道三が完敗し、首を獲られることとなりました。

この様相は一般企業でもよくあることですよね。
人というのは結局歳を取ると耄碌してしまうのかもしれません。
我執(がしゅう)にとらわれる、と言ったらいいのでしょうか。

若くったって我執にとらわれがちな我々人間(特に恋愛で笑)ですが、歳を取って自制心が緩むことで抑えきれなくなるのでしょうね。
(はた)から見ると本質から大きくずれたところに感情的にこだわって若手の反感を買う年寄り経営者が多いような気がしてなりません。

もしかしたら、自分が耄碌したかどうかの客観的な基準を作った方がいいのかもしれません。
引退のタイミングを誤ったことで次世代との確執を生み、本来は平和的な引退となったはずのものが敵対的に引退させられるという現象を生んでしまうのは悲しいです。

道三の場合は果たして耄碌したことによるのか、もともと道三よりも義龍の方が人望があったのかはわかりませんが、息子の器量を見誤って去り際を美しく飾れなかったことがそもそもの敗因なのかもしれません。

というわけで、今回ビジネスに活かせる教訓としては

「去り際を美しく!!」

ということですかね。
自分が耄碌して我執にとらわれていることに気づかず、害悪をまき散らし、「優秀な後継者がいない」といっていつまでも引退しない年寄り経営者諸君は早く引退すべきだということと、自分がそんな歳まで生きられた場合、耄碌したことを自覚する客観的な基準を作っておくべきだなと感じました。

合戦そのものについての教訓ではありませんでしたが、今回は以上です!

※画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・斎藤 山城守〔通称は新九郎〕 藤原 朝臣 利政〔道三〕
〔長井 新九郎 藤原〔大江?〕 規秀〔秀龍〕〕
さいとう やましろのかみ〔通称はしんくろう〕 ふじわら の あそん としまさ〔どうさん〕
〔ながい しんくろう ふじわら〔おおえ?〕 の のりひで〔ひでたつ〕〕

・斎藤 治部大輔〔通称は新九郎〕 藤原 朝臣 高政〔義龍〕
さいとう じぶのたゆう〔通称はしんくろう〕 ふじわら の あそん たかまさ〔よしたつ〕
・土岐 美濃守〔通称不明。左京大夫〕 源 朝臣 頼芸
とき みののかみ〔通称不明。さきょうのだいぶ〕 みなもと の あそん よりのり?〔よりあき?〕
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
日本百名城の旅

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