叡山焼き討ち―問題が山積みのときの対処法 | 歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

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「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は令和2年3月21日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第14弾として「叡山(えいざん)焼き討ち」について書きます。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

第1回 今山の合戦
第2回 耳川の合戦
第3回 沖田畷の合戦
第4回 小豆坂の合戦
第5回 長良川の合戦
第6回 桶狭間の合戦
第7回 稲葉山城の合戦
第8回 金ヶ崎城の合戦
第9回 姉川の合戦
第10回 二俣城の合戦
第11回 一言坂の合戦
第12回 三方ヶ原の合戦
第13回 野田城の合戦

『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の萩原雄二郎氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

合戦の概要がわからなければ何を学べるかわからないので、まずは合戦概要です!




信長は無神論者?


合戦内容としては言わずとも知れた織田上総介信長がお寺を焼いた、という神をも恐れぬ悪行ですね。
(相手は仏教寺院ですが)

当時、仏教界では大御所中の大御所、聖域とされた比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)

元亀(げんき)2年(1571年)、織田上総介はここを焼き払い、坊主やそこにいた女子供を虐殺したという話です。
(当時の寺に、僧ではない女子供が常泊している時点でおかしいのですが)

昔はこの話は上総介の悪逆非道の話として伝えられていました。

最近は焼かれた延暦寺側もひどいことをしていたとして、上総介を擁護する解釈も多いですね。

この解釈をもっと知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第33回―延暦寺の歴史

少なくとも上総介が神仏をないがしろにしていたみたいな話は嘘で、彼は地元尾張(おわり)熱田神宮(あつたじんぐう)を大切にしています

そしてあまり知られていませんが、彼は仏教それ自体を否定していたわけではないようです。

彼自身はのちに安土(あづち)城に総見寺(そうけんじ)というお寺を建てています。
(そのため彼は死後「総見公」とも呼ばれています)


だから、決して無条件に神仏を否定していたわけではないんですね。

では、なぜ延暦寺を焼いたのか?




第一次信長包囲網


以前ご紹介した「金ヶ崎(かねがさき)城の合戦」や「姉川(あねがわ)の合戦」からつながる話です。


関連記事:
金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない

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姉川の合戦-即座に方針転換する


当時の織田上総介の周りは敵だらけ、四面楚歌(しめんそか)の状態でした。

具体的にいうと

A.越前(えちぜん)〔福井県〕の朝倉左衛門督(義景)
B.北近江(きた・おうみ)〔滋賀県北部〕の浅井備前守(長政)
C.近江の甲賀(こうか)郡〔甲賀市〕の六角承禎〔義賢〕
D.大坂(おおさか)と伊勢(いせ)〔三重県〕の一向宗(いっこうしゅう)(石山本願寺(いしやまほんがんじ)・長島(ながしま)

などと敵対していました(当時は戦国大名(せんごく・だいみょう)だけでなく一向宗徒などの一部の仏教集団も大名なみの勢力をもっていました)。

その流れで、仏教寺院ながら大きな武力と権力をもっていたE.比叡山延暦寺が浅井(あざい)・朝倉(あさくら)を匿い、肩入れするような行動をとった訳です。




焼き討ちまでの流れ


上総介の行動が突発的ではないことを確認するために、叡山焼き討ちまでの流れを確認しましょう。


↑参考(第一次信長包囲網の図)※クリックで拡大されます。

まず、上図でいう①元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎城の合戦です。
(以下、文中番号は上掲地図の番号、アルファベットは上記敵対勢力の記号です)

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金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない

この合戦前夜、明確に上総介に敵対しているのはA.朝倉左衛門督(義景)のみでした。

そのため、京都(きょうと)から出陣した上総介は越前金ヶ崎城を攻めるのですが、その合戦の最中にB.浅井備前守(長政)が離反します。

九死に一生を得て京都に帰還した上総介ですが、C.六角承禎〔義賢〕も離反し、岐阜(ぎふ)に帰るのも難しい状況になります。
(詳しくは上記記事「金ヶ崎城の合戦」をご参照ください)

その後6月には上総介は②姉川の合戦にて浅井・朝倉軍を破ったため近江戦線はひと段落します。

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姉川の合戦-即座に方針転換する

9月には③摂津(せっつ)で三好三人衆(みよし・さんにんしゅう)を倒すため野田(のだ)・福島(ふくしま)城へ向かいますが、突如大坂で本願寺(D.一向宗徒)が挙兵しました。


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『麒麟がくる』第23回―三好氏の血縁関係(2)

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雑賀・根来合戦から学ぶ―つまらない職場を楽しくする方法


野田城・福島城を落城寸前に追い込んだものの、呼応するかのように④浅井・朝倉連合軍が再び兵を挙げ、森三左衛門可成や弟の織田九郎信治のこもる宇佐山(うさやま)城を包囲し、彼らを討ち死にさせます。


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『麒麟がくる』第32回―森可成とは?

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上総介は急遽摂津から近江坂本(さかもと)に戻り、⑤志賀(しが)の陣にて浅井・朝倉軍と対峙(たいじ)しますが、浅井・朝倉軍はE.延暦寺に立てこもり、手が出せなくなってしまいます。

と同時に一向宗勢力が伊勢長島でも兵を挙げ(⑥長島一向一揆)、上総介の弟彦七郎信興などが討ち死にしてしまいます。

上総介は、このままだと多方面作戦を強いられて確実に負けると判断したのでしょうか。
⑦11月にはなんとか六角承禎(義賢)と和睦(わぼく)して南近江の安全を確保します。

そして領内にある延暦寺領をすべて返還することを条件に延暦寺に対して浅井・朝倉に協力しないよう頼みますが、断られます。

浅井・朝倉を出さなければ焼くぞ、と脅かしてもダメでした。

⑧将軍家足利義昭の協力によってなんとか浅井・朝倉軍と和睦します。
(この包囲網の黒幕は将軍家義昭ですが)

しばらく小康を得ますが、⑨翌元亀2年の5月には包囲網の一翼を担う伊勢長島一向一揆を攻めます

しかしうまくいかず。

兵を退きあげ、今度こそ浅井・朝倉軍の殲滅(せんめつ)を目指し北近江小谷(おだに)城を攻めます。

上総介はそのまま浅井方の各城を落としていきますが、突如兵を転換して坂本を目指します。

比叡山延暦寺を攻めたのです。

延暦寺としては、まさか一大仏教勢力であり聖地とされた自分たちが焼かれるとは思いもよらず、あっという間に灰燼(かいじん)に帰したという話です。
(最近の研究で、実は上総介は比叡山の寺院をすべて焼いたわけではなく、一部の拠点のみ焼いたことが分かってきています。詳しくは下記ブログさんをご参照ください)

※有名な話ですが、この「叡山焼き討ち」の実行部隊の総大将を務めたのが明智十兵衛光秀です。
今大河ドラマ「麒麟がくる」で話題の人ですね!

関連記事:
『麒麟がくる』第5~6回―当時の京都の情勢




何をビジネスに活かせるか?


というわけで、上総介信長の行動からビジネスに活かせる行動を抽出していきますが、今回は教訓だらけで楽ですね笑

まずは包囲網の切り崩しの際の冷静な行動力ですね。

これだけのピンチって人生にあまりないと思うんですよ。

しかし、冷静に敵勢力が一枚岩でないことを分析し、同時に全勢力を相手にしないように一つずつ対処していますね。

これって経営者レベルでも一般事務レベルでも共通する処理能力だと思うんですよ。

どんなレベルにいても問題山積状態に直面することはあるわけですが、そんなときって、
①いったん仕事から離れ、パニックになった頭を落ち着かせる(現状を受け入れ、覚悟を決める)
仕事に優先順位をつけて、A.締め切りに遅れたら大問題が起きる仕事、B.比較的軽くてすぐに終わる仕事、に優先的に取り掛かり、あとは捨てる
③②の仕事が終わり次第、捨てた仕事を拾ってできればすべて片付ける

という対処が必要になるのかなと思いますが、上総介は見事にそれをやっていますね。

参考記事:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める

あとは叡山焼き討ちそのものから得られるポイントですが、

・誰もができないと思っていることをやってみる

これに尽きます。

僕らの脳みそは非常に保守的なので、未知のことをやりたがりません。
大体が「それは無理だ」という処理をして、選択肢からはずしてしまいます

しかし、よく考えると「できない」のではなく「やりたくない」ことが多く、そのやりたくない理由も「未知の行動にエネルギーを使いたくない」という理由が多いんですよ。

ですがほとんどの場合、やってみても大したエネルギーを使いません。

ですから、何かをやるときにまず脳みその「できない」という甘えを取り払ってみることが大切だともいます。

織田上総介信長という人物はそれが非常にうまかったのだと思います。

【まとめ】
・問題山積みのときの冷静な処理能力
・「できない」を言い訳にしない開拓力


というわけで、今後は「できない」を言い訳にするのはもうやめましょう!

今回は以上です!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・織田 上総介〔右近衛大将、右大臣。通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ かずさのすけ〔うこんえのだいしょう、うだいじん。通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・朝倉 左衛門督〔通称は孫次郎〕 日下部 朝臣 義景
あさくら さえもんのかみ〔通称はまごじろう〕 くさかべ の あそん よしかげ
・浅井 備前守〔通称は新九郎〕 藤原 朝臣 長政
あざい びぜんのかみ〔通称はしんくろう〕 ふじわら の あそん ながまさ
・(佐々木)六角 左京大夫〔通称は四郎〕 源 朝臣 義賢〔入道承禎〕
(ささき)ろっかく さきょうのだいぶ〔通称はしろう〕 みなもと の あそん よしかた〔入道じょうてい〕
・森 三左衛門 源 可成
もり さんざえもん みなもと の よしなり
・織田 九郎 平〔藤原、忌部〕 信治
おだ くろう たいら〔ふじわら、いんべ〕 の のぶはる
・織田 彦七郎 平〔藤原、忌部〕 信興
おだ ひこしちろう たいら〔ふじわら、いんべ〕 の のぶおき
・明智 十兵衛 源 光秀
あけち じゅうべえ みなもと の みつひで
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
時空思いつくまま
現在の比叡山について
楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三
歴史King

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