野田城の合戦―統率力と「イメージ(印象)」の力 | 歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

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「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、令和2年3月5日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第13弾として「野田(のだ)城の合戦」について書きます。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

第1回 今山の合戦
第2回 耳川の合戦
第3回 沖田畷の合戦
第4回 小豆坂の合戦
第5回 長良川の合戦
第6回 桶狭間の合戦
第7回 稲葉山城の合戦
第8回 金ヶ崎城の合戦
第9回 姉川の合戦
第10回 二俣城の合戦
第11回 一言坂の合戦
第12回 三方ヶ原の合戦

『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の今川徳三氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

合戦の概要がわからなければ何を学べるかわからないので、まずは合戦概要です!




野田城の落城


元亀(げんき)3年(1572年)の年末に三方ヶ原(みかたがはら)の合戦で徳川(とくがわ)方に大勝した武田信玄は、遠江(とおとうみ)と三河(みかわ)の境界近くにある刑部(おさかべ)で年を越しました。

三方ヶ原の戦いについての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
三方ヶ原の合戦―最強の能力「豹変力」

元亀4年の1月には徳川にとって三河と遠江を結ぶ重要拠点であった野田城を包囲します。

その数2万5千~3万人。

一方野田城を守る菅沼織部正定盈と松平与一郎忠正の軍勢はわずか400~500程度。

数だけで考えると徳川方が圧倒的に不利ですが、城攻めというものはそう単純ではありません。

城には堀や矢倉(やぐら)などの防衛機能がありますので(そもそもそれが目的です)ので、それぞれの防衛機能を発揮するための最低限の人員がいれば防衛できてしまうんですね。

もちろん人数はある程度までは多い方がいいですが、兵糧(ひょうろう)攻めをされたときの食糧の分配を考えると、必要最低限の人員が籠城していた方がいいようです。

というわけで、単純に数字上だけで500人 vs 3万人 と見ているだけでは判断しようのない籠城(ろうじょう)戦ですが、今回の「野田城の合戦」も予想に反して1か月もちこたえます。

もちろん、菅沼織部や松平与一の作戦などの要素もあったとは思いますが(どのような作戦で籠城したかは伝わっていません)。

ですが結局武田(たけだ)軍によって水の手を断たれた野田城勢は降服し、菅沼織部と松平与一は自分の命と引き換えに城兵を助けるよう武田軍に条件を付けますが、結果的に二人とも人質交換で徳川方に生還することができました。

3月ごろの話です。

関連記事(松平与一郎に言及した記事):
これぞ徳川家の柱石・三河武士の死にざまだ!!(山岡荘八『徳川家康』第2巻)




武田信玄の死


というように合戦そのものの顛末(てんまつ)はあっさりと終わりますが、この戦いが有名なのは武田信玄の死にかかわりが深いからです。

実際に武田信玄が死んだと言われているのはこの翌月の4月ですが、この戦いのころにはすでに様子がおかしかったという話があります。

昔から言い伝えられている伝説によれば信玄はこの野田城の合戦のときに徳川方に銃撃され、その傷がもとで死んだと言われています。

野田城を望む高台に陣取っていた信玄は、毎夜野田城から聞こえる笛の音に聞きほれていたといいます。
野田城を包囲している中、毎夜、特定の場所に座り、笛の音をきいていたそうです。

それを知った野田城勢は信玄の座っている場所を特定し、銃撃に成功したという伝説です。

山岡荘八の『徳川家康』や黒澤明の『影武者』でも取り上げられているこのエピソードですが、実際には信玄の侍医(じい)の文書(もんじょ)が見つかっており、信玄は病死したということがほぼ確定しているそうです。

関連記事:
苦難の時代の幕開け―山岡荘八『徳川家康』第5巻




ビジネスに活かす要素は?


で、肝心のビジネスへの応用ですが、今回特筆すべきなのは武田軍の撤退ぶりだと思います。

多くの場合、大将が合戦中に死んだら一気に敵方に畳みかけられて壊滅されられるでしょう。

そうでなくても統率を失った軍は四散してさんざんな目に遭いますが、武田方は徳川軍に追い立てられることもなく見事に撤退しております。

その要因としては、まずは信玄の容態が思わしくないことを徹底的に秘匿(ひとく)したことにあると思います。

おそらく当時から何となく武田軍の様子がおかしいとか、どうやら信玄が病気か何かで臥せっているようだ、みたいな情報が徳川方にも漏れていたとは思います。

しかし、決定的な証拠がつかめなかったのだろうと思います。

現代においても、会社の新製品の情報を漏えいした例があります。

ある世界的企業の重役が、ある日娘にぼそっと新製品の情報を伝えたそうです。

すると娘さんは嬉々としてSNSでそれを友人に伝え、秘密の情報が瞬く間に世界中に広まったなどという話があります。

情報漏えいはちょっとした油断から起こってしまうことが多いですが、武田軍はそのちょっとした油断を防ぎ、徹底的に秘匿したのではないかと思われます


関連記事:
天目山の戦いから学ぶ―撤退のベスト・タイミングとは

関連記事:
金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない

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三増峠の合戦―撤退は計画的に

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川中島の合戦―場を俯瞰し、目先の動きに没入しない

関連記事:
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そして次に重要なのはおそらく武田軍の「強さ」にあると思います。

武田軍が、戦ってもそれほどダメージのなさそうな相手だったとします。

「大将が病かもしれない」という噂があったら徳川は小手調べくらいの戦は仕掛けるはずです。

徳川方がそれをやらなかったのは、おそらく武田軍が「小手調べ」レベルでも相手に大ダメージを与える実力があったからではないかと思います。

さらに徳川軍は「三方ヶ原の合戦」等ですでに大ダメージを受けており、武田軍を追い立てる余力がなかったことにもよると思います。

というわけで、ビジネスに直接関係あるか疑問ですが「下手に手を出すと痛い目を見る」というイメージも大切ですよね。

《まとめ》
・情報漏えいを徹底的に防ぐ統率力
・相手に敵に回したら恐ろしい、と思わせるイメージ戦略


が大切になるのかなと思います。

今回は以上です!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・武田 大膳大夫〔通称は太郎〕 源 朝臣 晴信〔入道信玄〕
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん はるのぶ〔入道しんげん〕
・菅沼 織部正〔通称は新八郎〕 源 朝臣 定盈
すがぬま おりべのかみ/おりべのしょう〔通称はしんぱちろう〕 みなもと の あそん さだみつ
・(桜井)松平 与一郎 源 忠正
(さくらい)まつだいら よいちろう みなもと の ただまさ
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
城旅人800
今日は何の日?徒然日記
上大岡的音楽生活

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