乾いた花 | シネマ、ジャズ、時々お仕事

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日々の生活のメモランダムです。

1964年 松竹(にんじんくらぶ) 監督 篠田正浩 脚本 馬場当、篠田正浩
(あらすじ:ネタバレあります)
ヤクザ同士の出入りで殺人を犯した村木(池部良)が3年ぶりに出所、横浜に舞い戻ってきた。その足で賭場に足を運んだ池部は、場違いな美少女(加賀まりこ)に目を留めた。三下・礼二(三上真一郎)の話では正体不明だが、いつも大勝負を張るのだという。その夜、勝負に負けた池部は、情婦のOL・新子(原知佐子)の許を訪ねた。原は、義父の経営する時計店の売り場で寝泊りしている。以前、義父に犯されたためだ。久々の逢瀬に原は燃え上がったが、池部の心は冷えていた。あの美少女のせいだ。翌日、組の事務所に顔を出した池部は、組長(宮口精二)から、目立たぬようにと釘を刺される。大阪から今井(山茶花究)率いる一派が横浜に乗り込み、対抗上、宮口は対立していた安岡(東野英治郎)一派と手を結んでいた。かつて、安岡組の代貸しを刺した池辺は、組同士の融和には邪魔な存在になっているのだ。翌日、賭場帰りに屋台で池部は加賀と偶然に出会った。加賀は「冴子」と名乗り、もっと大きな勝負がしたいと漏らす。池部はその願いを叶えようと、翌日、ボウリング場を根城にしている旧知のヤクザ・相川(杉浦直樹)を訪ねた所を、安岡組のチンピラ・次郎(佐々木功)に襲われる。杉浦らに取り押さえられ、あっさり口を割った佐々木は、東野の命令で指を詰めさせられ、彼はその指を持って池部の部屋を詫びに訪れた。鷹揚な池部の態度を見て、佐々木は逆に彼を慕い始め、部屋に入り浸るようになる。一方、杉浦の伝手で加賀と賭場に足を運んだ池部は、初体験の「手本引」にも臆せずに大勝負を張る加賀に驚く。賭博に勝って高揚した気分の加賀は、池部を自分のスポーツ・カーに乗せて首都高速を疾走。挑んできた走り屋(阿部脩)も振り切り、池部と二人で哄笑する。だが、池部には賭場の隅に居た不気味な目付きの男・葉(藤木孝)が気になった。杉浦の話では、最近、横浜に流れてきた麻薬中毒の殺し屋らしい。池部の心を弄ぶように、加賀は藤木の無表情な目付きに魅力を感じると言う。次に池部が加賀と賭場に出掛けた晩、警察の手入れが入った。賭場を飛び出し、空き部屋に入った池部は、加賀を裸にして一つ布団にくるまり、何とかその場を逃れた。池部は加賀を抱きしめようとしたが、結局、キスしか出来なかった。帰途、池部は藤木と思しき男に投げナイフで襲撃される。帰り着いたアパートでは原が待ち受けていた。会社の同僚(倉田爽平)に求婚されていると打ち明ける原を、池部は「口が臭えな、胃を壊しているのか」と冷たくあしらう。池部の心はとうに原から離れていた。それを知りつつ、原は池部の身体にすがりつく。その頃、宮口は東野と話し合った末、新進歌手(竹脇無我)の興行に山茶花が介入してきた件の処理を池部に委ねる。難題と知ってのことだ。案の定、交渉は難航。さらに、安岡組の幹部が今井組に殺されたため、激怒した宮口は池部に山茶花の首を取れと厳命。その前に、池部はどうしても加賀に会いたかった。だが、どの賭場にも加賀の姿はない。実は加賀も池部の部屋を訪れ、言付けを窓硝子に残していたのだが、二人の関係に気付いた原が嫉妬心に駆られて硝子を割っていたのだ。だが、遂に決行という日、池部は偶然に加賀と邂逅。スリルを求めて、麻薬に手を出したという加賀を一喝した池部は、最高にスリリングな場面を見せてやると、彼女を山茶花が待つナイトクラブに連れ出した。踊り場で加賀が見つめる中、階上のクラブに進み入った池部は、無言で山茶花を刺殺。場内が混乱する中、一人立ち尽くす池部の姿を、大きな瞳を見開いて、じっと加賀が見つめていた。2年後、池部が収監中の刑務所に杉浦が入所してきた。休憩時間の中庭で池部の姿を認めた杉浦は、懐かしそうに話しかけ、加賀が死んだことを告げた。情痴のもつれで、藤木に殺されたのだという。「だが、そのお陰で、あの女の素性がわかりましてね…」と話をつないだところで、池部の休憩時間が終わった。名残惜しそうに見送る杉浦の視線を背に、池部は心の中で呟いた。「素性などどうでもいい。死んだと聞いた今でも、俺は冴子に飢える」
(感想)
ラスト・シーンの独白「飢える」は「うえる」ではなく「かつえる」と読みます。いかにも原作者・現都知事らしい言い回しですが、これは明らかに原作を超えた傑作。他の松竹ヌーベルバーグ2人、吉田喜重と大島渚と比べ、女房の経済力はともかく(藁)、作品の質では何かと分が悪い篠田正浩監督にとっては、この一作を撮っていたことで随分と肩身が広くなったのではと思わせる素晴らしい作品です。ご本人にとっても会心作であったようで、トークショーに出られる度に、何かとこの作品に話題が及び、「この前もニューヨークで上映会がありまして…」、「スコセッシは松竹からプリントを購入して、30回以上、自宅で観ているので、私よりもこの映画のカット割に詳しい…」、「コッポラはゴッドファーザーⅢでこの映画をコピーしている…」等々、いつも、さりげなく自慢話になるのが微笑ましい(藁)。ただ、もちろん、演出の力も大きいのでしょうが、私にはコントラストを活かした見事な白黒映像を撮ったカメラの小杉正雄、背中で中年ヤクザの哀愁を見事に表現した池部良、そして「生きている妖精」としか思えない、若き日の加賀まりこの存在感、のいずれが欠けても、この傑作は出来上がらなかったように思われます。まぁ、独立プロ作品で、主なキャスティングは監督自身が担当されたようですから、演出だけではなくプロデューサーとしての力量も含め、篠田正浩監督の貢献ももちろん大きかったとは思いますが。
有名な話ですが、池部良は当時、東宝の菊田一夫ミュージカル「敦煌」の主演を1週間で降ろされて以来、不振を託っていた時期に当たります。この「敦煌」事件、実際には遅筆で鳴る菊田一夫と台詞覚えに難がある池部との間に上演前から対立があり、結局、重役演出家である菊田が、自らに服従しない大スター・池部を干した、というのが実情に近いようですが、彼の代役に立ったのが何と井上「おさな妻」あるいは「馬渕晴子の夫」孝雄ですから(藁)、大スターのプライドはズタズタになったでしょうし、何より、この事件の後には、「寒流」や「花影」のような秀作こそ撮ってはいますが、出演映画数が激減。62年と63年には、それぞれ年間3本の映画しか出ていないのです。事実、篠田監督が池部良の自宅を訪ねた際にも、当初、池部は「台詞の覚えられない老優を冷やかしに来たのか」という冷淡な態度だったようですが、熱心な監督の説得で翻意。クライマックスの長回しは、テストだと言って、例によって台詞うろ覚えの池部を騙して(藁)、実際にはカメラを回したテイクが採用されたようですが、全体に漲る緊張感はそんな所から来ているのかもしれません。
共同脚本に馬場当を指名したのは、篠田監督曰く「松竹脚本部で一番、バクチに詳しいから」(爆)。確かにこの映画、未だ、東映京都によってヤクザ映画が様式化させる以前の撮影で、賭場の実態を生々しく描いている点でも特筆ものです。初期の藤純子・緋牡丹シリーズや、江波杏子・女賭博師シリーズでも、隠した札を当てる「手本引」のシーンは出てきますが、やがて賭場シーンは丁半博打に統一されるようになりましたから、本作のように執拗にそのプロセスを撮った作品は、今後はもう見られないでしょう。どことなく覚束ない手付きで、神妙に花札を取り扱う加賀まりこの姿も今となっては貴重品です。もちろん、博打シーンだけではなく、男女の冷えた関係を表現するのに口臭を使った辺りは、演じた原知佐子自身が、その斬新さに驚いたと認めています。ただ、シナリオ段階では、もう少し加賀まりこと原知佐子の対立にもウェートが割かれていたようで、実際に、地下駐車場で両者が対峙するシーンも撮ったらしいのですが、最終的に編集でカットされたとか。原知佐子ファンには残念でしょうが、完成品を観た中立第三者的な立場では、この編集に異議を唱える気にはなれません。印象的には、出演女優は加賀まりこだけ…と言っていいのではないでしょうか(ハハハ)。本作における加賀まりこの現実離れした存在感は、正に神々しい、といいたくなるほどですから。
元々、松竹系自主プロであるにんじんくらぶの製作で、大船ではなく目黒の柿の木坂スタディオを使って撮ったということも、池部以外は松竹専属ないし常連の新劇役者(宮口精二等)を使いながら、全く違ったテイストを醸し出すのに成功した原因かもしれません。しかし、あまりに松竹大船調を逸脱した本作、松竹上層部の逆鱗に触れ、半年以上もお蔵入りになったそうです。しかし、却って、そのことで話題になったようで、いざ、封切りされると成人指定映画(今で言うR-18ですな)であるにもかかわらず大ヒット。そして、劇場に足を運んだ人物の中に、東映の大プロデューサー・俊藤浩滋氏がいたことで、池部良のその後の人生は大きく変わりました。本作の中年ヤクザ・村木は、ほぼそのままのいでたちで、翌年「昭和残侠伝」の風間重吉として蘇ることになります。
2010年、私はこの映画を3回観ました。1回はフィルム・センターの「篠田正浩レトロスペクティブ」、後の2回は年末の川崎市民ミュージアム「脚本家・馬場当特集」と、新文芸坐の「池部良追悼特集」です。フィルセン所蔵プリントは極めて綺麗な状態でしたが、後の2回に使用された松竹配給プリントは、ズタボロとまではいきませんが、随所でタテ傷が目立ち、数箇所で脱落が見られました。これが、例えば「不良番長シリーズ」辺りの娯楽作品であれば(喩えて申し訳ありませんが(藁))、脱落によるサブリミナル効果も笑ってやり過ごせますが、こういう密度の高い作品の場合、フィルムのつなぎ目での数秒間の脱落でも、随分と鑑賞の妨げになると思います。配給会社は、ぜひ、次回上映からは良好な状態のニュー・プリントを提供されるように願っています。