『ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。』ルカによる福音書15章20節
なぜ、イエスは両腕を広げたまま亡くなられたのだろうか。
有名な『ライフ』誌に掲載されたピューリッツア受賞写真が、その理由を最もよく教えてくれているのかもしれない。
それは、1973年に戦争捕虜がベトナムから帰還した際に撮られた報道写真である。
巨大な輸送機が西海岸にある空軍基地に着陸し、第一陣の戦争捕虜が、立地入りを禁止された家族たちの騒がしいほどの歓声の中へタラップを降りてきた。
しかし人々の目は、カーキ色の軍服に身を包み、瘦せこけた顔の上に軍帽をかぶった1人の兵士にとりわけ引きつけられた。
何かが彼の注意を引いた。1人の女の子が立ち入り禁止のテープの張られた群衆の中から飛び出し、歓喜の表情で、飛行場の風に長い髪をなびかせながら、その兵士に向かって突進していった。
兵士の耳に、女の子の呼び声が聞こえたに違いない。
彼女に気づいた兵士は、無意識のうちにダッフルバックを投げ出すと膝を曲げ、少女を抱きとめるために両腕を大きく開いた。
そしてシャッターが切られたとき、少女の両足は地面を離れ、空中に浮いた彼女の両腕は、帰ってきた父親に差し出されていた。
父と娘の再開の写真である。
イエスが両腕を広げたまま亡くなられたのは、この理由からであった。
その両腕には、神にとって常に最も重要なのは、神の大きく開かれた両腕の中に飛び込むご自分の子どもたちであるという喜ばしい事実、輝かしい真実が伴っている。
この1コマを、私たちが自分の心の中にとどめておくことをお勧めしたい。
私たちが本当に求めているもは、究極的には「愛されること」、「赦されること」、「いつも覚えてもらっている」ことであるからだ。
私たちの愛する者たちは、いずれは皆、寿命や様々な理由で離れていく。それは避けられないことだ。
しかし、真実の愛は思い出の中にではなく、現実に愛されているという経験によってのみ、心に本当の平安をもたらすものだ。
あなたは本当の愛、真実の愛、変わらぬ愛を得られただろうか。
それではまた次のお散歩の時に。
Until our paths cross again!