むかしむかしのお話です。
今をさかのぼること26年前の今日
1989年8月19日
後に世界を揺るがすイベントがありました。
俗に言う
「汎ヨーロッパピクニック」
です。
この半年ほど前、
私はオーストリアの首都
ウイーンにいました。
半年後にこのようなことが起きることも知らずに。
半年後にこのようなことが起きることも知らずに。
当時、民主化の風が吹き荒れる東ヨーロッパ
民主化の波の中で
唯一逆行する国がありました。
東ドイツです。
東ドイツは、
民主化や市場経済を取り入れると
西ドイツとの差別化がなくなり
国家存続の意味がなくなります。
政府は頑なに民主化の芽を摘み取っていました。
東欧諸国の中でも経済的に成功の部類にはいる
東ドイツでさえ、西ドイツへの亡命者が
後を絶ちませんでした。
ベルリンの壁に象徴される
東西の大きな鉄のカーテンが
ここには引かれていました。
1989年のある日
オーストリア=ハンガリー帝国の
最後の皇太子
オットー・フォン・ハプスブルクが
会食の席で、とある冗談をいいました。
かつて一つの国だった
オーストリアとハンガリーの間に
鉄のカーテンが引かれている。
鉄のカーテンを挟んで
両国でピクニック(今でいうバーベキュー大会)を開き
東西でビールを乾杯したり
焼いた肉を分け合ったりしたら楽しいだろうね。
冗談のつもり?で発した言葉が現実になった
これが汎ヨーロッパピクニック
というわけです。
当時、民主化の急先鋒だったハンガリーでは
オーストリアとの国境を開放しようという動きがありました。
このニュースはたちまち東ドイツ市民の間で噂になり、
ハンガリー経由で西ドイツに亡命できるのでは?
と考えた人たちが、ハンガリーとオーストリアの
国境地域に押し寄せました。
まだこの時点では国境は開かれておらず、
行き場を失った東ドイツの人たちは
西側との間の国境付近でキャンプを張ることになります。
これを知ったハンガリーの民主化団体は
ピクニックイベントを開き、
東ドイツの人たちを招待することにしました。
東西冷戦に対する皮肉をこめたアピールを
世界中に公開しよう、というのが
表向きの開催理由でしたが
実際には裏の目的がありました。
当日はハンガリー中のバスが動員され、
ハンガリー国内にいた東ドイツの人たちを
現地に輸送しました。
14時にピクニックが始まると、
ビールの乾杯とともに
民族舞踊やバーベキューが開催されます。
この間に、ハンガリーとオーストリアの
国境がこじ開けられました。
オーストリア側から押しかけた客に対し
ハンガリーの検問所では入国の手続きを
始めましたが、
ハンガリーからオーストリアに流れる
東ドイツの人たちについては
その存在すら無視するかのように
流出を防ぐことも、出国の手続きをすることさえ
何も行いませんでした。
入国手続きを待つオーストリアの人たちは
この東ドイツの人たちのために
あえて道をあけ、通りやすくしたといいます。
オーストリア側には、こちらもオーストリア政府が
用意したバスが待ち構えており、
流れ込んできた東ドイツ市民をその日のうちに
西ドイツまで運ぶ手はずを整えていました。
この時、実は亡命する東ドイツの人たちに
すでに西ドイツのパスポートが手渡されていたといいます。
つまり、これは東ドイツ政府に反感を抱く
東ドイツの人たちの大量亡命を手助けすべく
用意周到に仕組まれた
一大イベントだったのです。
当時、ワルシャワ条約で結ばれた
東ヨーロッパ諸国では、
自国民も、他国民も
西側諸国への亡命を止めるべく
東欧諸国民を西側へ出国させないという
決まりがありましたが、
ハンガリーはこれを
いとも簡単に破棄しました。
これが針の一突きとなりました。
東ドイツはハンガリーに対し
激しい抗議をするとともに
同年10月3日
チェコスロバキアとの国境を封鎖し、
ハンガリー経由での流出を
防ぐ手段を講じましたが、
時すでに遅し。
時すでに遅し。
その甲斐も虚しく
同年11月9日
ベルリンの壁は崩壊。
東西冷戦は終わりを告げるのでした。
冷戦が終結するその直前
私はオーストリアから
チェコスロバキア(当時)に入国し
当時の東欧諸国の方の
生活や文化を体感し
激しいカルチャーショックを受けていました。
激しいカルチャーショックを受けていました。
実を言うと、その5年ほど前から
私はハンガリーの人との交流があり
この先どうなっていくんだろうと
当時のニュースを気にかけていました。
めまぐるしく変化する情勢
それに翻弄される人々
現地でリアルタイムで観てきた私は
民衆の力が国の在り方を変えることが
できるんだということを実感しました。
そういえば、数年前、
チュニジアのジャスミン革命の一端を
目の当たりにする機会もありました。
ブブカをまとったチュニジアからの難民が
トロカデロ公園で
民主化の緑の旗を掲げてデモを行っている場に
遭遇したこともありました。
国家とは
国民とは
もう一度考え直す
いい機会かもしれませんね
