先週のことですが、某一般紙のサイトでカンボジア代表としてロンドン五輪への出場が決まった猫ひろし氏の検証記事が掲載されていました。一般人のアンケートや関係者の反応を盛り込んだ内容になっていましたが、個人的には非常に不快な気持ちにさせられました。
今回猫氏がこうしたかたちでクローズアップされてしまいましたが、最近のオリンピックでは自国では出場できない選手が他国の国籍を取得して五輪に出場するのは決して珍しいケースではありません。私が知るところでは、元中国の卓球代表選手が自国での代表出場が難しくなり、米国やヨーロッパの国に移り、オリンピックに出場しているのケースがいくつかあると記憶しています。それに対し米国内から批判が出たという話は一度の聞いたことがありません。
それ以前にもアフリカやカリブ諸国の有望陸上選手が同じく米国やヨーロッパの国籍を取り、素晴らしい練習環境を確保しながら五輪出場を目指すというのが当たり前の世界になっていました(たぶん今も大きく変わっていないと思います)。猫氏にしろ、IOCの規則を違反しているわけではないのに、なぜ彼だけが批判を受けるのかがわかりません。
たしか体操の元日本代表の塚原選手もオーストラリアの国籍を取得して五輪出場を目指していたはずですが(結局国籍が間に合わなかったようですが)、彼の場合はむしろ美談のように扱われていたと思いますが、この2人に何の違いがあるのでしょうか?
今回の猫氏の五輪出場に着目し、かなり商業主義に走ったIOCの姿勢や制度に疑問を投げかける記事なら納得もできますが、“賛否”の声があるとしながら結局は猫氏の批判に傾いている内容では完全なお門違いでしょう。
「芸能人がふざけて五輪に出場するのは失礼」とのネット上の声を紹介したり、記者本人の意見として「(新しい国籍を取得した)多くの選手が生活拠点を移した」としていますが、一般サラリーマンより勤務時間不定期ながらも練習を積んで標準記録を超えたのはむしろ賞賛に値することですし、最近は日本のマラソンランナーだって年間の多くを海外で高地トレーニングを行い、大会出場の時だけ帰国するというのが当然のトレーニング方法になっているではないですか。どうしても的外れな指摘としか思えません。
高校野球でも越境入学が当たり前のようになり、出場選手の大半が地元出身ではないという学校も多くなってきています。それでも地元の人たちはその高校を応援しますし、高校も甲子園出場で有名になることで生徒集めに利用しています。
カンボジアも猫氏を代表に選んだのもまさに同じ理由でしょう。出生がどうあれカンボジアの国旗を背負った選手が五輪の場で活躍してくれた方が国民が盛り上がってくれるのは当然のことです。
なぜこのような論調の記事としてまとめようと思ったのか、同じスポーツを取材する立場として非常に寂しく思いました。皆さんは如何でしょうか。
ただ最後に言っておきますが、私は現在のIOCの理念は好きではありませんし、五輪出場のためとはいえ簡単に日本人のアイデンティティを捨て多国籍を取得する選手たちの考え(もちろん猫氏も含めてです)には共感はしていません。
今日はこの辺で…。