「言葉というものは、あんなに速く打たなければならないものでしょうか」

脚本家・作家の山田太一が10年ほど前にこんな言葉を残していたと、先日の東京新聞のコラム「筆洗」に教わったのですけれど、要するに若者がスマホに打ち込む文字の速さを言っているのですなあ。

 

ともすると、若者たちの速射を垣間見つつ、「ほお~!」などと感心したりもしてしまうところながら、山田のつぶやきから考えてみれば、考えて思いを巡らしている文章が綴られているとはどうにも思えないところはあります。山田の心配は、ありきたりの言葉しか出てこないだろう、本当の気持ちを伝えることなどできないだろうということで。

 

何事につけ速さは若いこととイコールなところもあって、速いこと即ちいいことのようにも思いがちですけれど、その速さに縛られるようにもなってきていようかと。いつの間にか普通に使われるようになっている「タイムパフォーマンス」(これもまともに打っていると、それこそタイムパフォーマンスがよろしくないので「タイパ」と略されますが)などという言葉は、そのことを端的に表しているのではないですかねえ。

 

ずいぶんと昔から「コストパフォーマンス」という言葉は使われておりましたですねえ、いわゆる「コスパ」ですけれど、かけるコストに対して効率やらがいいのかどうかを考えるとき、そこにはそもそも時間の要素も入っていたと思うのですよね。それがことさらに時間の部分をクローズアップして別扱いするようになるほど、現代は時間に縛られているとも言えましょうか。もっとゆとりがあっていいと思うのですが…。

 

さりながら、この時間、速さが求める風潮を支え、後押ししているのが、IT技術であったりしますですね。技術が進むとは便利になったことであって、それを適切にしかも速さを伴って使いこなせることこそ良いという具合で。

 

ほどなく関西万博は終了となりますがけれど、その中でもIT技術を駆使した数々の展示物があったことでしょう。未来は素晴らしい的なアピールとともに。ですが、それと同じようなこと(もちろん技術のレベルは隔世の感あるとしても)は1970年の大阪万博でもあったでしょう。「人類の進歩と調和」という言葉の下に。

 

その大阪万博で最も象徴的な建造物となった「太陽の塔」をデザインした岡本太郎は、当初万博の理念に共鳴できず、参画依頼を断っていたことは有名な話ですよね。機械化の推進が明るい未来を作るかのような思わせる展示に対して、岡本は機械の奴隷になっているだけといったことを言っていたようで。思えば、そのまま機械の奴隷化が加速度的に進行して現在があるとも言えてしまうのではないですかね…。

 

とまあ、やおら文明批評とでもいうようなことを漏らしてしまいましたが、今でもガラケーしか使っていない者にとやかく言われたくない、てなこともありましょうね。ただ個人的にはスマートフォンに買い替える動機付けも必要性も皆無だもので、ガラケー自体万歩計に使っているようなものなのですよね。今の世の中で全く不便を感じないこともないですが、だからと言って絶対に必要だと痛感したようなこともありませんし。

 

と話が戻りかけてしまいそうながら、ここまでのところのお話はカルステン・ヘンというドイツの作家による小説『本と歩く人』を読んだ後の思い巡らしでもあるのでありますよ。

 

本を愛し、書物とともにあることが生きがいの孤独な老書店員が、利発でこましゃくれた九歳の少女と出会い、みずからの閉ざされた世界を破られ、現実世界との新たな接点を取り戻していく物語。

版元・白水社HPではかように紹介されていますけれど、紙媒体としての本はもはやそのありようが多いに揺るがされるようにもなっているご時勢、しかも主人公の老書店員カールは(amazonの委託とかいうことでもなく)店で注文を受けて取り寄せた本を注文主の家を一軒一軒訪ねて渡して歩くという形をこそ、自らの仕事と自負している…とは、時代遅れと切って捨てられて当然とも思われなくもない(実際に、長年勤務してきた書店をくびになるのですけれど)。

 

ただ、この非常にタイパの悪いカールの行いは、さまざまに孤立化する人々を結びつけていくことにもなるのですよね(本人もまたそのうちの一人であったと気づかされるわけですが)。こういうことって、必ずしも機械では置き換えられないものでもありましょうし、人々を結びつけるといったことにひたすら速さを求めることが得策とは言えないこともありましょう。

 

ま、版元HPには「老書店員と少女が織りなす現代のメルヒェン」ともありますように、ファンタジーとしていかようにも読める内容を持っている本書の一端から思いを巡らしただけではありますが、時間の流れはとどめようがない(物理学の理論的にはどうか分かりませんが)ものの、時間感覚の速い遅いには個人差がでることもあるわけですし、ひたすらに速いことを至上とするのはどうであるかなあと考えてみることは、決してタイパの悪いことではないような気がしたものなのでありました。