読響演奏会@東京オペラシティコンサートホールに出かけてきたのでありますよ。メイン・プロのリムスキー=コルサコフ『シェエラザード』は炎暑の最中、ちと熱すぎるのでは…などと思っておりましたが、確かに重厚な始まりではあるものの、むしろヴァイオリン・ソロの冷たい涼感とでも言いますか、シェエラザード姫の心のうちに秘められた青い炎にゾクッとしたりも。ま、怪談ではないですけれどね(笑)。

 

 

ところで今回プロの目玉のひとつは、「世界的名手が奏でる至福のモーツァルト」とフライヤーにもありますとおり、ベルリン・フィル首席のオーボエ奏者アルブレヒト・マイヤーがモーツァルトのオーボエ協奏曲を披露することでしたですね。

 

モーツァルトのオーボエ協奏曲といえばK.314だと思えば、さにあらず。ただ、他にオーボエ協奏曲を作っていたとも聞き及ばず…だったわけですが、ここで取り上げられたオーボエ協奏曲ヘ長調K.293についてはプログラム・ノートにこんな紹介が載っておりましたよ。

…オーボエ協奏曲ヘ長調は、1778年秋の(マンハイム)再訪時に着手された。おそらく宮廷楽団のオーボエの名手フリードリヒ・ラムのために書かれたと推測されるが、オーケストレーションは50小節、オーボエ・パートは70小節まで進んだところで放棄され、未完のまま残された。

要するにK.293の作品番号を持つものは断片と残されたに過ぎないのでしたか。もっともそのままで演奏会にかけるのはとてもとても…であるはずですから、曲名に添えて「G.オダーマット補筆版」とあるように、スイスの作曲家ゴットハルト・オダーマットが断片をもとに第一楽章を構成し、第二、第三楽章は新たに作曲したのであると。

 

果たしてどんな具合になっておろうか?と興味津々で聴き始めたわけですが、最初はいかにもなモーツァルト…であるのは当然ですなあ。最初の数十小節は自身の手によるのですから。さりながら、だんだんと「おやぁ?」と思うのもまた当然ではありましょう。進んで、第二、第三楽章となってきますと、これはもうオダーマットの完全な創作となれば、なおのことです。

 

どうなんでしょう、オダーマットが後半をつくりだすにあたって、モーツァルトらしさを意識はしたでしょうけれど、どうしたって本人の個性は入り込みましょうね、きっと。それだけに、モーツァルトっぽいフレーズのお尻だけひょいと捻って「あら?」てな感じを受けることもままあったような。

 

今や「らしさ」を追求するのであれば、生成AIにモーツァルトのすべての楽曲データを学習させて、続きをいくつか作ってね!とコマンドすれば、おそらくたちどころに幾種類かのバージョンで結果が提示されるのではないですかね。「らしさ」の追求という点では、人が試みる以上に「らしさ」のある曲が出来上がるかもしれない。

 

ことモーツァルトのこの曲に限らず、極端な話、シューベルトの未完成交響曲を完成させてしまうとかいうことも生成AIにはお茶の子問題ではありましょう。もちろん、それを命じる人がいるかどうかが分かれ目ですけれどね。

 

どこかで誰かがいろんな試みをしていて、もしかすると結果が動画で見られるてなこともあるのかもですが、それが大きく話題になるわけでもないのは、いくら「らしさ」を装っても機械が作った「らしさ」以外の何物でもない、といって「人が作ってこそ」感覚があるのかもしれませんですねえ。

 

結局のところ、創造性といったものまでがヒトから奪われるのを良しとしない、というか胡散臭く感じるような意識が働くのかもしれません。ブラインド・テストでもしてみれば、おそらく区別はつかないでしょうけれどね。

 

ま、ヒトが作るにせよ、Aiにやらせるにせよ、残念ながら未完で残されたものを完成させるのは、もはや別物を作るといったことと同じなのだと考えた方がいいのでしょうなあ。それだけにタイトル表記の仕方を、今回のようにオダーマット補筆とするのでなくして、モーツァルト/オダーマット作曲のオーボエ協奏曲とでも言ったらいいような。バッハ/グノーの『アヴェ・マリア』と言うがごとくに。

 

失礼ながら、オダーマットって誰?となるよりも「モーツァルト作曲の…」とした方が受けがよいということはあるにせよ、添え物表記では多くの部分を作った作曲家が浮かばれませんし、これがモーツァルトなのだと思い込むのもまた違うことですしね。

 

ただ、AIが作り出したものだったらどうなのであるか。もはやAIによる創作物は当たり前の状況になりかかってもおりましょうから、そのうちにAIがペンネームをもって、作曲家然とした?あるいは作家然とした名前を名乗って(名乗らせて)作品が発表されるようになるのかも。初音ミクのような存在(?)はもう十年以上も前からあるのですしね。

 

ともあれ、そんなふうになっていったとき、作り手はともかく受け手にとって「いい」と思えればそれでいいとなりましょうか。どうなのでしょうねえ…と、演奏会のお話からすっかり離れてしまいましたですが、すぐさま答えの出せそうもない問題に沈思するところなったものでありましたよ。