昨日(7/6)のEテレ『日曜美術館』は「ジャポニスム 西洋を変えた“美の波”」という内容で、面白くも思い巡らしどころの多い話でありましたですねえ。ただ、食いつきどころは番組の本筋とは些か異なるあたりかとも。
1867年のパリ万博に出品された江戸期・日本の美術工芸品などなど。フランスはもとよりヨーロッパの人たちは異国情緒が濃厚に漂う珍奇な品々に目を奪われたようでして、分けても浮世絵は元々かけそば一杯の値段で江戸っ子に売りさばかれていたものだけに、エキゾチックなその品を彼の地でも欲しいとなれば(価格的には)手に入れやすいところでもあったかと。
そこで誰が目をつけたのかは分かりませんですが、「安価な団扇絵が1年に80万本輸出されるなどブームは一般人にも広がった」(番組HP)のであるとか。確かにブームがあったのであろうことは、モネやルノワール始め印象派の画家たちなどが残した作品に団扇が描きこまれている事実が示しているようで。
これまでジャポニスムが意識された絵画なのであるな…とぼんやり見ていてしまいましたけれど、それが団扇絵であることを認識しておりませなんだ。で、これを機会にと紹介された作品群をしげしけ眺めやれば「!」と。折しも一昨日(7/5)にNHK『探検ファクトリー』では「うちわ生産量日本一の香川・丸亀市にある工場」(番組HP)を訪ねていたのだっけと思い出したわけでして。
なんでも丸亀を筆頭にして、日本には「三大うちわ」というのがあるそうで。何も巨大なうちわということでなくして(誰もそういう勘違いはしないですかね…)、生産量が多いのか、伝統工芸品として残っているということなのか、はたまたその両方であるのか。…。ともあれ、丸亀うちわ、京うちわ、房州うちわ(千葉県ですな)をして、日本三大うちわであると。それぞれ作り方に個性があるようです。
で、先ほどまでの話とどうつながるのかと申しますれば、フランスの絵画に描きこまれた団扇絵のうちわそのものに着眼にしますと、個性の異なる三大うちわのそれぞれの特徴が見てとれるではありませんか。そのことに「ほお!」と思ってしまったわけなのでありますよ。
気候風土による自然素材を活かした工芸品が(いわゆる産業革命が遅れて入ってきたこともあり)日本には数多くあるわけで、そこに職人魂が込められることもあってか、日本では美術と工芸の境界線がとてもあいまいとはよく言われるところではなかろうかと。
それに対して欧米ではヴィクトリア朝英国のアーツアンドクラフツ運動が巻き起こるまで、アートは高尚なもの、クラフトは普段遣いの陳腐な?ものと区分けられて、作り手に対する意識も大きくことなっていたような。
そこへもってきて、実用品以外の何物でもない団扇に装飾として絵が付いているも、その絵を手掛けたのは日本の一流絵師たちである(それが安価で買える)ということにも、大きな衝撃を受けたのではないですかね。そして、輸入した側が気付いていたかは分かりませんが、そんな一流絵師の作品がどこの産地のうちわにも配されている(独占契約とかいったことでもなしに)のもまた驚くべきことだったかもです。
それだけ、一流絵師として人気があったとしても、浮世絵バブルのような状況が日本では起こってこなかった。背景としては何かと華美を戒める幕府のお達しが出されてもいましたし。ですが、そんな世の中にあって、普段遣いのうちわであってさえも、人気絵師の手になる団扇絵が施されたものを使うことで、生活に彩りが加わる、心が和む、そんなささやかな幸福感を江戸期のひとたちは敏感に感じていたのかもしれませんですね。
この敏感さ、繊細さはよく言われるように、日本の「おもてなし」の美感に通じてもいるような。『日曜美術館』のトークでも余談的に、日本の包装の仕方に触れていましたですねえ。一概には言えませんが、デパートなどで買い物をしたときに、売り場の方が品物を包装するその技術は日本に優るところ無しなのではと。ぴしっとくるまれていることの美感と清々しさ、店員から顧客へのおもてなしですし、買った客がお遣い物として渡す先へのおもてなしもまた含んでいようかと。
個人的な経験として、ドイツ・フランクフルトのショッピングモールで紅茶のセットを買い、包装してくれた店員さんが悪戦苦闘しているようす、なおかつ仕上がりの杜撰さに驚きを隠せなかったことを、ふいに思い出したりもしたものです。
てなことを言っていますと、ともすると日本人を優位性を喧伝するナショナリズムのようにも見えてしまいそうですけれど、それぞれの国・地域がそれぞれに独自の文化を育んできた結果というだけのことなのでありましょう。ただ、世界中のことが簡単にあれこれ知れるようになっているご時世、比べてみて「どうだ、すごいだろう」ということよりも、「ああ、大事なことが昔から続けられてきたのであるなあ」と思うことの方が肝要ですかね。
考えてみれば、気候風土に関わって普段の生活を彩る雑貨なり、風習なりを「昔のこと」、「何の科学的裏付けもない」として切り捨てるのは、日々のうるおいという点では寂しいことなのかもしれません。
折しも今日(7/7)は七夕で、向かい合う牽牛と織姫にとっては大事な日でしたなあ。科学的にはアルタイル(牽牛星)とベガ(織女星)は、実は奥行き(地球からの距離)がかけ離れて違っていると分かっていて、隣り合っているどころの騒ぎではないわけですね。
つまり七夕の伝説は、それこそ伝説でしかないのですけれど、旧暦で盛夏にあたる暑い暑い時期に、かすかな風にそよぐ七夕飾りを笹に飾って、わずかな涼を得る。夜になると、夕涼みがてら星空を見上げて伝説の星々を眺めやる。そんなことごとが、日本ではありきたりの毎日の中で日々に美感をもたらす術ともされてきたのでありましょうかね。
そういえば、近ごろは(あちこちの商店街の祭りはともかく)七夕飾りを飾るという家も見かけなくなってきたような。ばかばかしい伝説であることはともかくも、そこから生み出された風習がもたらしていた夕涼み感、これは記憶されていいことのような気がしたものでありますよ。もっとも、新暦ながらすでに熱帯夜の続く毎日になってしまってはおりますが…。
このところちとお休み頻度が高いですが、また父親の通院介助がありまして…。明日(7/8)はお休みいたしますです、はい。