かなり唐突ですが、黒沢明監督の映画「悪い奴ほどよく眠る」を見たのですね。この作品は初めて見ましたが、「力、入ってんなぁ!」という印象でしょうか。三船敏郎の演技がなおその感を強くするわけですが…。

 

 

土地開発公団と建設会社の癒着、贈収賄はかなり根深いものがあるようで、どこかしら綻びが生じそうになると、トカゲのしっぽ切りよろしく、そそくさと下っ端を犠牲にしてうまく取り繕ってしまうようす。

 

ですので、なかなか悪事の全貌をつかめないところへこれに敢然と立ち向かう人物(三船敏郎)が登場するんですが、悪事に対抗するにはかなり危ない橋も渡らねばならず、そのことは気付いてみれば、法律に照らすと犯罪になってしまうようなこともある。

 

一方で、金やら地位やら何やらが得られるといった本人の利得に重きをおいて、そのための犠牲は仕方がない、あるいは全く気にかけないと考える者たちには罪を犯しているという自覚が極めて薄い、もしくは全く自覚がないのかもしれない。

 

だもんですから、前者が講じた手段の犯罪性に思い悩むようなときでも、後者は夜になれば何も考えずにのうのうと眠ることができる…ということで、「悪い奴ほどよく眠る」なのですなあ。

 

で、この映画、最後の最後でありていに言って「悪」が勝ってしまうという。ごくごく普通の映画であれば、波乱の展開という紆余曲折の後には間違いなく「悪」が滅ぼされて「めでたし、めでたし」となりそうなものですが、果敢に立ち向かった人物はあわれ交通事故を偽装されて葬り去られてしまうことに。

 

こうした「悪」が勝ち残ってしまうことの余韻は、勧善懲悪めでたし、めでたしよりもむしろかなり大きいと言えましょうか。そして、映画の中で電話の向こう側としか示されていない黒幕の存在は謎のまま。

 

松本清張が「日本の黒い霧」などで帝銀事件や下山事件などを取り上げて、表立ってこない「巨悪」に切り込んでいったのがストレートな手法ならば、こちらの方は具体的に実際の事件を取り上げていない分、普遍性があるといいますか。

 

もちろん「悪」がそこここにあっては困りますけれど、現実の世界には大なり小なりの違いこそあれ、
うじゃうじゃしていることが示唆されてもいるようでありますね。

 

そうしたことに対抗する難しさもまた示唆されているものと思いますが、だからといって「悪い奴ほどよく眠れる」状況が常に温存されてしまうとすればそれはそれでおかしな話な。

 

地味な方法ながらもまずもって変だなということには「変だね」と声に出すようなことが必要かもしれませんですね。