オーケストラのコンサートに出かけるたびに思っていたのですけれど、どうして奏者の方々というのは無表情で演奏しているのであろうかなあと。もそっと楽しそうにしてもいいんじゃないのかなと思ったりしていたのでありますよ。
もちろん楽しい曲調でもないのに楽しそうにと言ってはお門違いになりますが、もそっと感情の起伏と言いますか、そうした辺りが表出してもいいのではないですかね。
録音やラジオ放送で「聴く」かぎりにおいてはそうした要素は伝わらないものの、こと演奏会となれば「聴く」と同時に「見る」という視覚的な部分もやっぱり伝わる情報として、その場で受け止める大きな要素になっていようと思いますし。
かねがねそんなことを漠と考えていたりするわけですが、先頃放送された(のを録画して見た)NHK交響楽団の定期演奏会ではかなりの数の奏者が何とはなしに楽しそうというか、うれしそうというか、そんな表情でもって演奏している人たちの多い演奏会であったことが珍しかったなあと。
曲目はモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲K.365が演奏されたときでして、ピアノ独奏が何とまあ、ジャズ・ピアニストのチック・コリアと小曽根真という顔ぶれ。この異種格闘技的なソリスト起用がN響メンバー(の一部)の顔をほころばせた…てなことでもありましょうかね。
モーツァルトが自身と姉ナンネルと共に弾くことを想定していたとも言われる曲で、複数の同一楽器が競うように音楽を奏でるというバロックの名残り的な古風さ、同時にいかにもモーツァルト!なフレーズが続々繰り出される分かりやすさがあるも、これに時折ジャジーな雰囲気が醸し出されるあたり、誰しもにんまりするところかも。
考えてみれば、協奏曲はその時その時のソリストのテクニック拝見!でもあって、取り分けカデンツァなどは自由にインプロヴァイズする点でそのジャズと親和性があり、そこに当世流ということでジャズの語法を持ちこんだりするのは、むしろ協奏曲本来のあり方なのかもしれませんですね。(単にジャズの語法を「当世流」というには、すでにジャズにも歴史がありますが)
よくまあ、こうした顔合わせがN響定期公演で実現したもんだと思う反面、N響だからできたのか?…とも思ったり。とまれ、この演奏の時が象徴的であるように、楽しいと思ったときには奏者の顔にもその楽しさが現れ出るとすれば、普段の演奏の際には何を思っておられるものやら…と思ったりもするのでありました。
と、ここで、ゲルギエフのいつも不機嫌そうな指揮ぶりはどうよ…ということも思い出されてきたものの、忌憚なく言えば地顔なのかのねとも…。