思いも寄らず長い歴史を持つ小津和紙店の印が見える絵図は「大傳馬街」でしたが、(ちなみに今の小津和紙の所在地は日本橋本町3丁目となってます)その大伝馬町のすぐ北側に小伝馬町というのがありまして。

 

以前、日本橋界隈の史跡を訪ね歩いたことがありますけれど、中央通りをたどって八重洲の方から東京駅へと足を伸ばしたものですから、小伝馬町の方にまでは手が廻っておらなかったのでして。近くまで行ったこの際だからと、未知なるエリアに踏み込んでみたのでありますよ。

 

といっても、史跡の類いはぎゅぎゅっとひとつの公園に集まっておるようで、その名は「十思公園」と書いて「じっしこうえん」。「十」を「じっ」と読む読み方は今や江戸弁の名残りかとも思えるところですが、「十手」は「じって」と読むのが本来として品物的にいかにもながら、「十個」を「じっこ」、「十本」を「じっぽん」、「十分」を「じっぷん」…と読むのが本来と言われたら、戸惑う人も多い昨今ではなかろうかと。

 

おそらく「二十世紀」を「にじっせいき」とか、「さんじっぷんごにまた会おう」と使ったとしたら、どこのじいさまか…てな印象になってしまうやもですね。ちなみにPCでは「じっぷん」と入れても「じゅっぷん」と入れても「十分」と変換されるのは歴史的な部分と現実的な部分の双方を斟酌してのことかも。

 

…と余談が長くなりましたですが、十思公園の話に戻るといたします。小伝馬町のあたりといいましたので、歴史やら時代劇やらに関心のある方ならすぐさまピンとくるところでありましょう、伝馬町の牢屋敷と。その牢屋敷の跡地にあるのが、この十思公園なのだそうですよ。

 

もっとも解説板によれば、慶長年間に創設されて以来、明治8年までの270年ほどの間に全国各地から伝馬町送りとなった者は数十万人に上ったそうですから、この公園を含む周辺一帯が牢屋敷であったということになりましょう。

 

 

都会のそこここにあるビルの谷間の公園で、何の変哲もないと思うところながら、ますはこのようなモニュメント(?)に目が留まります。造成するときに掘り出されたのでしょうかね。牢屋敷の石垣だそうです。これまた解説板によれば「四囲に土手を築いて土塀を廻し」と、堅固な造りだったのでしょう。

 

 

と、ここの存在をひときわ後世に伝えるのが「安政の大獄」でありましょうか。その際に斬首された一人に吉田松陰がおりまして、「吉田松陰終焉乃地碑」が残されているという。

 

 

お隣の大きな石には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と松陰の歌が刻まれていますけれど、道半ばで志を遂げることができない悔しさ、出てますね。

 

ちなみに上の公園の写真で、左手に櫓のような建物がありますけれど、この2階部分に吊り下げられているのが「時の鐘」(1711年製らしい)というもので、文字通りに江戸市中に「時」を伝える時報の役割をしていたと言います。

 

本来は別の場所(日本橋室町に別途の解説板がありました)にあったものですが、牢屋敷での処刑の際にこの「時」の鐘を合図にするようなこともあったてなことから、「時の鐘」は十思公園に移されてきたのでありましょう。

 

ときに、公園内には伝馬町牢屋敷とおよそ関わりないと思しき碑もありました。「杵屋勝三郎歴代記念碑」といって現代にも伝わる長唄の三味線の名跡を称えたもののようで。どんより分かりにく写真ですが、三味線が彫られているのはご覧いただけようかと。

 

 

なんでも最も有名な二代目勝三郎が近くの馬喰町に住まっていたことからこの公園に記念碑をてなことになったようではありますが、こう言ってはなんですが建ててもらってもあまりうれしい場所ではないような…。

 

ですが、もはや牢屋敷であったことも遥かな記憶の世界にとどまるばかりで、今や普通の公園。ビルの谷間のむしろオアシス的な使われ方もしているであろう小伝馬町の公園で、束の間、歴史に思いを馳せる梅雨曇りの昼下がりでありました。