道後にいてセキ美術館を堪能した後、松山市中心部に戻るにはもそっと時間がありそうでしたので、こちらにも少々。子規記念博物館でありました。
訪ねておいて何ですが、実は正岡子規という人がどういう人であって、どんなことをした人物であるのか、およそ知らずにいたのでありますよ。夏目漱石の作品はほとんど読んでいて、その漱石の友人であった…とは知っているも、子規の方には全く接点のないままに今に至っておりましたので、この際というわけです。
館内展示の始まりにやおら松山の歴史が出てきたときには、ここはもしかして正岡子規に関する博物館ではなくして、郷土の著名人子規の名を冠した郷土博物館であろうかと思ってしまいそうに。
ですが、道後の湯が例えば法興六年(596年)に聖徳太子が訪ね来ていたり、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな」と額田王が詠んだ「にぎたつ」とは道後温泉のことであったり、相当な由緒のある土地であることがまず示される。
そして近世に及んでは、松山を治めた松平家ではお殿様自ら文芸を好み、家来衆もこぞって殿を見習ったという環境を伝えて、子規誕生の地としていかにもな場所であることが説明されるのですな。
というところで正岡子規ですけれど、維新前年(1867年)に生まれて明治35年まで短い生涯にいろいろなことに興味を持ち、その中のいくつかでは新時代を切り開くことをしたという人であったようで。
母方の祖父が藩の学者であったところから漢文・漢詩の教えを受けて、これに興味を抱いたのが文芸志向への萌芽でありましょうか。学校へあがると友人らと雑誌作りを始めたりもしますが、14歳になると折からの「自由民権運動」の風にあたって政治を志すようにもなる。
こうなると東京に出て一旗挙げたいと考えるようで、東京にいる叔父を手紙攻撃で口説きおとして、明治16年に子規は上京。まずは学問と東京大学予備門(後の旧制第一高等学校)に入学するも、都会の毒気に当てられたのか?寄席通いとベースボールに明け暮れるように。
子規の野球好きは有名なようですね。伊予鉄道道後温泉駅前の広場にはユニフォーム姿の像が置かれてありますし、東京・上野公園にある野球場は正岡子規記念球場という正式名称ですし。
ちなみに子規自身はもっぱら「ベースボール」と言っていますけれど、「野球」という字の並びを使ったのは子規が最初だそうですね。もっとも、ここでの「野球」は「の・ぼーる」と読んで自身の幼名「升(のぼる)」に引っ掛けて作ったペンネームの一つだそうですが。
これまたちなみにですが、子規が編み出した実にたくさんのペンネームの中に「漱石」というのがあるのだそうですね。子規が入れあげたもうひとつの寄席通いは夏目金之助との出会いをもたらし、生涯の交友につながりますけれど、その友人が夏目漱石と名乗ろうとは思いも寄らぬことではなかったろうかと。
東京で楽しく青春時代を過ごしていたかに見える子規青年でありますが、21歳のときに肺結核で喀血、この時になって初めて「子規」と号すことに。子規=ホトトギスの口の中が真っ赤であることに喀血した自身を重ねてのことのようです。
この後の子規は余命への不安を抱えて忙しく行動していくのですね。まずは大学を中退し、縁故のある陸羯南を頼って新聞「日本」に就職。新聞紙上をもって、俳句の革新、短歌の革新を推進していく。
また、居宅である子規庵に集う仲間達とは文章の革新をも目指していったという。俳句、短歌、文章のいずれもキーになるのは「写生」であって、時代にあった分かりやすさを目指したようす。
こうした運動は子規亡き後も俳句、短歌それぞれに後継者を得て展開されますが、子規の文章改革の影響を受けて漱石の「吾輩は猫である」が出来たのですなあ。御見それしました。
しかしまあ、子規の後継者たちを紹介する中で、夏目漱石は当然に取り上げられるわけですけれど、代表作の第一に「坊っちゃん」と来るのが松山らしいところでありますね。