METライブでリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」を見てきたのでありますよ。2015-16シーズンでは最後の作品でありますね。
シュトラウスのオペラ作品は、確か二期会の公演でしたでしょうか、「サロメ」や「ダフネの愛」を見たことがありますけれど、かなり古典的な題材に興味があったのかなと思うところでありますね。音楽自体は当時として斬新な路線を行っていたでしょうところが、どうも趣味志向は古典的でもあるのか…。
「第三帝国のR.シュトラウス」という本を読んだときに、滞在先のアムステルダムから妻宛に送った手紙の内容に「へえ~」と思ったものでして。ここの美術館で、レンブラントやフランス・ハルスやロイスダールといった画家たちの、素晴らしい絵をたくさん見ました。こういったオランダの画家たちというのは、実に新鮮で、健康的で、生命力にあふれた人々なんだね。
なんつうことのない内容とも言えますけれど、シュトラウスの生きた時代は世紀末から新世紀への文化的爛熟の最中にあって、彼自身の音楽もまさにそうした風潮の只中にあったものと思われるだけでに、
絵画が対象になっているとはいえ、フランス・ハルスやロイスダールの名を挙げて(レンブラントはかなり斬新とも言えますが)「健康的で生命力にあふれた…」云々と評しているのが俄かにしっくりこなかったと言いましょうか。
古典的との括りでは同じになるものの、やっぱりシュトラウスの取り上げたオペラ題材は「サロメ」のような退廃であったり、「エレクトラ」での陰惨な復讐劇であったりするものですから。
…と前置きが長くなりましたですが、シュトラウスの「エレクトラ」のこと。先にやはりMETライブで見た「ロベルト・デヴェリュー」でのエリザベス1世役が出番の90%は怒っているてなことでありましたですが、ここでのエレクトラも怒ってますね、憎しみ満載で。
ともすると、モノローグ・ドラマにもなってしまうかというくらいに登場し、しかも歌いっぱなしのエレクトラは、作品がオペラであることを考えれば見事に演じきれば大喝采を浴びる役どころなのでしょうね。実際、ここでエレクトラ役に当たったニーナ・ステンメには会場総立ち状態でしたし。
ですが、これまた先に見た「蝶々夫人」のときと同じようなことを言い出してしまうことになりますけれど、そもそもの話としてどうなんだろうなあと思ってしまうのですよね。
エレクトラが主人公である以上、エレクトラの父に当たる夫アガメムノンを殺し、かつての情夫を後釜に据えている母クリュタイムネストラは憎悪される対象以外の何者でもないわけです。
ですが、劇中、悪夢を見るとしてその悪夢を払うすべに関して娘のエレクトラから教えを乞おうクリュタイムネストラの姿が描き出されたりしますと、「おやぁ…?」と思ってしまうのでありますよ。
何しろエレクトラが心に誓う復讐は、例えばハムレットのように真意をひた隠しにしているようなことはなく、むしろ怒り心頭で狂気に至ったかとも周囲に思われているのですから、そういう状況を知っている母親としては聞く相手を間違えてませんかと思えるわけで。
ところで、本作の中ではクリュタイムネストラ側からの釈明といいますか、そうした辺りのことは一切触れられていないものの、ギリシア神話の中ではそも殺されたアガメムノンはクリュタイムネストラの最初の夫を戦場に置き去りにすることで彼女を手に入れた…てな経緯があり、アガメムノン自身、前夫の子に狙われることを怖れていたなんつうこともであるとなれば、あまりに複雑に過ぎて安直に善玉悪玉と決め付けにくい状況にもなってこようかと。
ですが、敢えてそうしたしがらみを排除したホフマンスタールの台本は、ひとえにエレクトラの極度な緊張状態を見せるべく、いろんな要素を削ぎに削いだ世界であったのかもしれませんですね。そうなると、爛熟の極みともいうべきリヒャルト・シュトラウスの音楽が付けられたのは場合によってはアンバランスなのかもしれません。
演出は映画監督であったパトリス・シェローによるものということですけれど、映画とは違う世界を現出しようとしたのか、これまた舞台装置や衣装まで削ぎに削いだものを使っているだけに、(衣装だけ見ると、こりゃあリハか?と思ってしまうほどで…)シュトラウスの音楽は時に絢爛に過ぎる気もしてしまいましたですよ。音楽だけにじっくりと耳を傾けてみれば、また印象も違うやもですが…。