毎年毎年、生誕○周年とか没後×年とかでクローズアップされる人物がいたりしますが、2016年は与謝蕪村の生誕300年なのだそうですね。

 

そのわりにはあんまり喧しく騒がれることがありませんけれど、たまたま気がついた「俳人蕪村-生誕三百年を記念して-」展を覗きに神田錦町の天理ギャラリーに行ってきたのでありますよ。

 

 

与謝蕪村(1716-1783)はもっぱら俳句の人として知られておりますけれど、絵も描けば、書もよくしとなかなかの才人でありますね。


ですが、時代は少々前後するも松尾芭蕉という俳諧の巨人がいるために、並び称されることがあるとしても、いささか部が悪いようにも思われるところかと。

 

で、芭蕉の句でよく言われる「わび」「さび」とは少々異なって、蕪村の句はもそっと絵画的と言いますか(絵描きでもありますしね)、そうしたことから先人とは違う路線を見出すべく独立独歩で進んでいった人のようにも勝手に思い込んでいたのですなあ。

 

ところが本展を見ることで、どうやら違う…ということがよぉく分かったという。例えば芭蕉ら先人とは違う路線どころか、蕉風復興運動に取り組んで京都金福寺境内にあって荒れ果ててしまっていた芭蕉庵の再興にも力を尽くしたりしたのだそうで。

 

さらに独立独歩といったわけでもなく、多くの俳諧仲間などとも親交を結び、明和七年(1770年)に師が称していた夜半亭を二世として名乗ることになると、一門に対して俳諧の心得から日常的な心がけといったところまで立派な訓示(「取句法」として書き残されている)をしたいたりするのですから。

 

しかしまあ、この蕪村の師であった夜半亭宋阿という人の教えはやがて蕪村が大きく花開くのに大いに貢献したように思われますね。昔を振り返って、蕪村が師の教えとして書き残したのがこんな言葉です。

かならず師の句法に泥(なず)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有べし。

師や先人のもの真似で終わらない、自由だけれどそうすることは難しいであろう、作風の模索てなことになりますかね。蕉風を敬いながらも蕪村らの作風が天明調と言われるのも個性でありましょう。

 

Wikipediaには「天明調」をして「絵画用語である『離俗論』を句に適用した」ものと紹介されてますですが、安永六年(1777年)に出版された「春泥句集」序にはこのような書かれていると。

俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ。

とこんなふうに言われますと、例えば展示にあった自らの絵に自らの句を書き添えた掛軸に見る「炭売に日はくれかゝる師走かな」てな一句にも、単なる炭売りの老人の姿ばかりか、その人の境遇、はたまた炭売りは例えであって、庶民にとっては一様に慌ただしく日暮れになってしまう師走のようすに何をか思わむ…てな気にもなってこようかと思うところですが、最後に蕪村の一句を。

ちる梅の五つに分ケる匂かな

読み手に散りゆく梅の匂いを想起させ、そうすることでなおかつ情景が絵画的に浮かび上がるような気がしてくるではありませんか。折りにふれて蕪村の句、そして書画も探求したいところではなかろうかと。