通勤の行き帰り、時に駅の近くではティッシュ配りをする人をよく見かけますですね。
まあ、この「ティッシュ配り」が何であるか?はおよそ触れずともいい部分でしょうけれど、ティッシュの裏側の小さなスペースを使った宣伝広告にどれほどの効果があるのか、個人的には至って疑問ではありますけれど、ティッシュ配りなるものが未だにあることがそれなりの価値ありの証しなのですかね…。
と、ここではティッシュ配りの宣伝効果を云々することが主眼ではないのでして。何しろ個人的には宣伝効果を疑っているくらいだものですから、およそ受け取ることもなく、従って「ああ、やってるな」と目の端で知る程度で通り過ぎてしまうのが常ですけれど、たまたま配っている人の動きに目が留まって、今さらながらに「?!」と。
その配っている人の動きと言いますのが、左腕で小さな段ボール箱を抱えて(その箱の中に配るべきティッシュがたぁんと入っているわけですな)右手で箱からティッシュを取り出しては通行人の前に差し出す…という流れ。これを繰り返しているわけですね。
取り出しては渡し、取り出しては渡し…という具合ですけれど、中には差し出されても受け取らない通行人もいるのですよね(自分のように)。となると、配る側の人の右手にはティッシュが残っている。にもかかわらず、ティッシュをもったままの右手は、新たなティッシュを取りにかかると同じように左腕に抱えた箱のところまで戻されていたのでありますよ。
つまり、手渡そうとしたティッシュが受け取られようと受け取られまいと、即ち右手が空になろうとなるまいと、右手は一度左腕で抱える箱を往復しているという。傍目で冷静に考えると、酷く無駄な動きをしているということに気付くのですよ。
言うまでもなく右手を箱に戻すのは空になった手に新たなティッシュを補充するためであって、まだ手に持っているのならその必要が全くないのですから。とは思ったものの、通りすがりつつも眺めやり続けておりますと、かのティッシュ配りびとは実にリズミカルな動きをしておるなあとも思えてきたのですね。
何せ受け取られた場合と受け取られなかった場合とで動きに違いはなく、常に一定のペースで一定の動きを繰り返している。ある意味、気持ちが良いほどにリズミカルなのでありますよ。
てなことが見て取れるに及んで、リズミカルな動きをするということは「仕事」という、ともすると「ええい、面倒だぁ!」的なことを忘れさせてくれる、もそっと前向きに捉えれば勢いをつける、弾みをつけるといったことに繋がっているのかもと思い至ったのですね。
今となっては全くご存知ない方も増えたことと思いますが、かつて鉄道駅の改札口には出札係の駅員さんが座っておりまして、乗客の差し出す切符に鋏を入れるという仕事に携わっておりましたですな。
これを思い出してみれば、鋏を持った駅員さんの多く(たぶん全てではないでしょう)が、切符に鋏を入れる、入れないに関わらず、一定のリズムでもって鋏を鳴らしていましたよね。カタカタ、カタタンとか何とかいう具合に。これなどもともすると単調になりがちな仕事に対処する術であったのかもと今さらながらに思うところです。
単調すぎて、たまに通り過ぎる定期券の客が期限切れを差し出しても気付かないてなことがあってはいけませんから、気持ちを前向きに、眠気も払ってと鋏を鳴らしていたのかもと。
効率のことだけ考えれば、先ほどのティッシュ配りも腕の一往復分が無駄ともいえますし、駅員の鋏も空撃ちを繰り返せば鋏の減りが早いてなことにもなりかねない。ですが、人には気持ちが乗る乗らないといった部分でも仕事ぶりが変わってくることがありますから、機械に対するように効率だけを考えては反ってうまくいかないこともありましょうね、きっと。