子供の頃から好きだったのかもしれませんし、はたまた大人になってからふいに面白さに目覚めるということもありましょう。「大の大人が…」と周囲の(その面白さが分からない)人たちから呆れられても、「好きなものは好き」というしかない…てなこともありましょう。


具体的に例えばですが、ミニカーが大好き、けんだまが大好きみたいな。そうしたものの中に「レゴ」なんかも入るかもしれませんですね。言わずと知れたデンマークのブロック玩具ですが、デンマークのもので日本にいちばん根付いている品物なのではなかろうかと。

 

個人的には子供の頃に買い与えられたのがたまたまにもせよ、河田(現カワダ)のダイヤブロックでしたので、これ一筋。基本的なブロックがレゴよりも厚み(高さ)がある分、無骨な印象でそのだけにレゴがいささかスタイリッシュにも見えてしまうところがあって、いささかお高く留まっているようにも思われ、「ケッ!」と思っておりました。

 

子供の頃にはかなり入れ込んで、いろんなものをブロックで組み立てましたですが、いつの間にかごく普通な成長過程の中で手に取ることもなくなり、現在に至る。ですが、そうしたブロック離れを経験するどころか、益々大人なりの技巧を凝らしてブロックを組み立てることに喜びを見い出す方々もいるのですなあ。自分にその感覚はありませんけれど、分からなくはない。

 

あたかも鉄道模型ファンがジオラマを大きく展開するのと同様に、自らの世界観を反映した町をブロックで作り出したりすることもあろうと思いますが、そうしたものを作り出す人たちにおそらく共通にあるのではと思うのが「他人に勝手にいじられたくない」ということではないかと。

 

自分が作り出した世界を見下ろすにおいては、(ちと語弊があるやもですが)その世界に対して自らは「神」に等しき存在。その立場を危うくするようなことをされるなどとは考えたくもないことでありましょう。それが配偶者であろうが、子供であろうが関係なしでしょうなあ。

 

ですが、配偶者はおそらく「呆れ」の境地に到達すること必至ながら、子供としては「おもちゃは子供のもの」と思っていますから、そう単純にはいかない。「いじりたい、さわりたい、遊びたい」ということになりますね。それを許容するとすれば、子供と遊ぶ良い親となるかもしれませんですが、配偶者に呆れられ、子供に羨望を抱かせるようなブロック世界を作り上げる人物にそうした感覚が具わっていると考えるのは苦しいところでありますね。

 

と、すっかりネタばれさせてしまってますが、「LEGOムービー」はそうした親と子の葛藤をブロック世界に仮託して戦闘を展開したものと言えましょうか。

 

 

映画では、その後は親子で仲良く遊び出すようなところでハッピーエンドを醸しているわけですけれど、何せ親にも子にもそれぞれに「こうしたい!」という世界観がありましょうから、おそらく映画の幕切れの先には、再度の戦闘(ごっこ)があるような…(お父さん役がウィル・フェレルですし)。ま、人には「どうしても譲れない」てなところもありましょうしね。