どうした具合でありましょうかねえ、どうにも風邪の抜けがよろしくないような…。やたら暑くなったかと思うと、それが落ち着けば体感的にはひんやりして…なんつう日々だからでもありましょうが、もしかして、またしてもコロナだったんではなかろうかとも。
このところ東南アジア方面ではまた新型コロナが再流行しているてなニュースを耳にしたりもしますし、これまでとは感覚的に症状が異なる気がするものの、相変わらず変異株(現在はオミクロン株に由来するXEC株とやららしい)が暗躍しているようですのでね。本当にコロナだったとすれば個人的には四度目の罹患ということになりますので、「いい加減にしてよ」と。
と、ひとしきりこぼしてしまいましたが、どうも今年2025年に入って腰痛やら風邪ひきやら、なんやかやでひたすら「養生に努める」時期が断続的に生じ、結果的に(ただでさえ運動不足をこじらせているのに)酷く体力が低下しておるなという事態なのですな。それだけに、多少なりとも動き回る(何せヒトは動物ですし)ことで回復を図らねばと思っておる次第です。で(やっと本題ですが)取り敢えず最も近くにある美術館を訪ねてみたというお話なのでありますよ。
覗いてきましたのは、東京・立川のたましん美術館(「たましん」とは多摩信用金庫のこと)で開催中の『対話する美のかたち~さあ、その眼で触れてみよう~』展というものでして、「コレクションと対話するようにして作品の鑑賞を体験していただきたいとの思い」が反映した企画であるそうな。
それにしても、「美術作品を鑑賞するというとき、私たちは何を、どのように見ればよいか戸惑うことがあります」とフライヤーに書かれているあたり、そもそも展覧会へ足を向けるかどうかの敷居になってもいようかと。そこへ、何かしらのヒントが与えられるとすれば、その敷居はいささかなりとも低くなり得るとは思いますし、洋の東西を問わず、古い作品と向き合うときには予め一定の知識を持って臨んだ方が理解しやすくなるのは事実でしょうなあ。
さりながら、この点にあまり気をまわし過ぎますと、知識を仕入れておかないと美術館に行けないてなことになってしまったりもして、にわとりが先か卵が先か、それが問題だとばかり、結局美術館に敷居を跨げないことにもなるような。
かねがね美術作品と相対するに、何をどんなふうに思ったとしても見る側の勝手と割り切っていいと、個人的には感じておりますだけに、あまりヒントに頼りすぎるのもなんだなあ…とも思ったり。その時々のヒントがよろしくないわけではなくして、ヒントが無いと分からないというふうになるとしたらどうよ?と。
今回のような展覧会を仕掛ける側としては、まずはヒントを頼りに作品と向き合ってみて「ふ~ん」とか「へえ」とか何かしらの感興が湧いたならば、次からは作品を見るにあたって自らヒントを創出して眺めてもらうようなことを考えているのかも。確かにその思惑に乗っかる鑑賞者も出てこようとは思いますが、何につけスマホでパパっと結果を求める傾向が世の中じゅうにあることからすれば、ヒントそのものを自分で創出するような方向に行くかどうか、少々危ぶんだりもするところでありまして。
同じようなことはクラシック音楽を聴くことにも通じておるように思いまして、この曲は…とか、この作曲家は…とか、この楽器は…とか、この形式は…とか、分かっていた方がより理解が深まるにもせよ、その音楽を聴く、あるいは美術作品を見るのは必ずしも「理解を深める」ためにやっていることではないはずですよねえ。
曲にしても美術作品にしても「ああ、きれいだな」「おお、すごいね」といった感情の揺らぎを入口にして、何かしらの思いが湧き起こったならば入口としてはそれで良いのではと。そういう点ではWikipediaの「芸術」という項目にある、こんな説明には「なるほど」と思いますですよね。
芸術(げいじゅつ、旧字体:藝術󠄁)またはアート(希: (η) τέχνη, tékhnē、羅: ars、英: art、仏: art、独: Kunst)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。
必ずしも「わかる」「わからない」が肝心な点ではないと思い至りますと、それだけで美術展やら演奏会の敷居が低くなるような気がしますですよ。その上で、少しずつ少しずつ経験値と知識を(結果的に)積んでいけたらよろしかろうと思うわけで。
と、今回のたましん美術館の展覧会にはどんな作品があって、どんな印象であったか…てなあたりには全く触れずにおりますが、この展覧会に足を運んだ甲斐のひとつは、ここまで書いてきたあれこれを思い巡らしたということでもありましょうね。まさに覗いた甲斐はあったと思ったものなのでありますよ。