『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』に続いてこれも、昨年11月に覗いた特別展「変わる高さ、動く大地-測量に魅せられた人々の物語-」@東大駒場博物館の「参考文献リスト」にあった一冊でして。測量と度量衡は切っても切り離させないところですが、これは度量衡のお話。『メートル法と日本の近代化 田中舘愛橘と原敬が描いた未来』でありました。

 

 

明治を迎えた日本では、それまで西洋との関わり薄いこともあり、さまざまなものが独自に発展・定着してきたわけですが、度量衡もまたそのひとつということで。簡単に言えば「尺貫法」主体の単位系が長らく機能して、人々の間ではすっかり定着していたのですよね。で、何かと欧米の制度を持ち込む方向であった明治政府としては、お金勘定やら時間の表示やら、いろいろと西洋風に改めていったのですから、度量衡もまたと思うところながら、明治8年(1875年)に定められた度量衡取締条例を見れば何と!相変わらず尺貫法主体の方針であったというのですなあ。まあ、なんでもかんでも一足飛びにというわけでには行かなかったのですかね。

 

ですが、諸外国に伍して三等国から脱皮するには、度量衡の国際標準になりつつある「メートル法」導入に踏み切らねば、後顧に大きな憂いを残すことになると考えてた学者がおったのであると。それが本書の主人公のひとり、田中舘愛橘だということで。ただ、18世紀末のフランスで編み出された「メートル法」は決して伝統ある単位系ではなく、だからこそ新たな科学的知見を基に作り出された(1m=地球の北極点から赤道までの子午線弧長の「1000万分の1」)わけでして、フランスがこれを世界標準になどと言えば言うほど、「フランスの言うことに与せるものか」的な反応を持つ国もあったのですな。

 

さりながら、単位の繰り上がりが10進法に基づくという分かりやすさ一つとっても、どこの国にも定着しやすいことからメートル法の国際標準化を当然の流れと見た田中舘は学者なりの手段でもって、これの啓蒙に努めるわけです。が、全国的な定着を図るには国の法律を変えてもらって、お上主導でやるしかないところながら、学者ひとりにはなす術もなく…。さりながら、田中舘には同郷で同年の友人が思いを共有して力を貸すことになる。それが藩閥政治を脱して、政党制内閣の首相として総理大臣に就任した原敬であった…とは、話がうますぎるくらいな気もしてしまいますなあ。

 

当時、民間では尺貫法が相変わらず使われている一方で、対外的な関係からこれを使わない組織もあったのですな。例えば、陸軍はフランスやドイツとの関わりをもって早くにメートル法を用いていましたし、海軍の方はイギリスとの繋がりが深いことでヤード・ポンド法を採用していたと。

 

つまりは、国内で尺貫法ベースを残しつつも、さまざまな単位系が同時並行と使われていたわけで、陸軍や海軍と取引する業者は時にメートル法、時にヤード・ボンド法をと、使い分けねばならなかったのでもありましょう。統一した単位系が望まれるところがあるのは宜なるかなと。原内閣の下、メートル法を基本とする度量衡法の改正に至る道すじを付けた度量衡及工業品規格統一調査会の議論では、こんなようなことも言われていたようで。

我が国の度量衡は多岐にわたり日本の古来の尺貫、斤、鯨尺系、メートル系、およびヤード・ポンド系が使われているが、その単位の数は度量衡法その他施行令に規定したものだけでも六十以上あり、この他法定外の単位もまた少なくない。加えて、使用範囲は甚だ紛らわしく、不統一であるので各分野とも不便極まりない。

ではありますが、それぞれの分野まちなちながら、それぞれに使い込んだ単位を手放すこともまた混乱の元と、なかなかスムーズには行かなかったのですな。メートル法を基本とする改正度量衡法は大正10年(1921年)まで待たねばならなかったといいますから。ただ、改正の後押しになったのは戦争への足音でもあったようで。後の国家挙げての総動員体制で臨むにはばらばらの単位系などにこだわっている場合ではないといったような…。

 

そんなこんなではありますが、根付いた単位というのは残るべくして残るものもありましょう。重さ(貫)の方はともかくも、長さで尺寸という単位は今でも聞きますし、土地の関係では坪も残っている。第二次大戦後の昭和26年(1951年)に、さらにメートル法を推し進める計量法が制定されたりしているにも関わらずです。それでも、基本がメートル法という十進法の簡便な換算基礎があるのは、やはり幸いというべきでしょうけれど。

 

とまあ、そんな経緯のあるメートル法の採用にあたり、田中舘愛橘と原敬の功績が強調されていた本書はこの登場人物二人と同郷、すわなち岩手県出身者が著しておりまして、明治期の藩閥政治に対抗する、かつて奥羽越列藩同盟に与した南部盛岡藩士という構図への肩入れ度合が極めて高いような。そのあたり、ちと割り引いて読む必要もあったりするかなとも思ったりしたものです。

 

それでも、現在放送が進行中のNHKスぺシャルドラマ『坂の上の雲』(司馬遼太郎の原作が、というべきか)は伊予松山から出た若者三人による明治史だったりするわけですが、こちらはこちらで南部盛岡から出た、田中舘愛橘、原敬に、新渡戸稲造(本書では僅かに触れられるばかりですが)を加えた三人が明治からその後の日本と世界をどう見たかといった点で、南部盛岡の坂の上の雲てなふうにも語れるところではかなろうかと思ったものでありましたよ。