明けましておめでとうございます。
少々の遅ればせ感を持って2025年、新春のご挨拶を申し上げたく存じます。
今年は暦の関係から比較的長めのお休みをお過ごしの方も多かろうと思いますが、みなさまは如何様にお過ごしでありましょうや。個人的には元旦からせっせと年賀状書きに勤しんで…とは異なこととうつるやもしれません。どっぷりと昭和で過ごした者といたしましては、年賀状なるものは年末のかなり早い段階で片付けて投函しておかねばならないものとなっておりましたですね。大量の年賀状が行き交っていた当時、郵便局としては元旦に届けるべく対処するには年末のいついつまでには投函してくださいとか、市内と市外は分けて輪ゴムでとめてとか、そんなことが言われておりましただけに。
さりながら昨今は年賀状仕舞いといったこともあちこちにありまして、年賀状の総量はかつてとはくらべものにならないくらいに減少しているようす。いつしか、年末ぎりぎりに出しても元旦に届くようになっているようですが、それでも「今年の汚れは今年のうちに」といった大掃除感覚で片付けて、年始には来た年賀状を読むだけでまったり過ごすことが習慣化しているのかもしれません。
年賀状が減ってきた背景には、もちろん他の通信手段、メールとかSNSとかの存在がありましょうけれど、一方で郵便による年賀状そのものが多分に儀礼的になっているという印象があるからでもあろうかと。ひと頃までバレンタインデーでは当たり前のようにやりとりされた義理チョコなるものが遠い昔のことになっていったがごとき儀礼さとでもいいますか。
ただ、中には例え年に一度としても、「あの人、どうしているかな?」というやりとりをする機会にもなってもおりましょう、年賀状は。もちろん、メールやSNSの方が簡便ですけれど、手紙(はがきであるとしても)に手書きで認められた文面には見た目に読み取れる文字以上の含みがあるようにも思います(その点、宛名から何から全面的にプリントアウトしたものは、それこそ典型的な儀礼はがきでしょうけれど)。
そんなふうに思うのも、たまたまにもせよ、年末あたりに『郵便探偵 ロストレターズ・ミステリー』などというアメリカのTVドラマ・シリーズを見ていて、郵便局員(アメリカの、ですが)が手紙に籠められた言霊とでも言いますか、そうしたものを大事にしている(ドラマ故かもですが)のに少々感じ入ったりしたことも関係しているのかも。
てなこともありますし、予て年賀状のやりとりと言いつつ、一方通行感があることに「なんだかな」と思っていたこともありまして。つまり、互いに年賀状を早めに投函しておくということは、送り手の側と受け手の側とで双方向のやりとりは(基本的にあり得ない)ということで。例えば、送り手が何らかの問いかけを書き込んでいても、すでに年賀状投函済の相手に対して改めて返事に相当する書状を送ることはおよそ無いでしょうから。
そんな思いもあって、昨今は元旦以降、届いたものに対して返事をするように年賀状を書いている。前置きが異常に長かったですが、これが元旦からせっせと年賀状書きに勤しんだ理由なのでありますよ。来たものに返信するという点で一応双方向のやりとりが(少なくとも一巡だけは)あることにはなりますが、こちらから積極的には出さないの?という点は少々悩ましくもある。でも、年賀状仕舞いが云々されるご時世に、こちらが出すから向こうも出すというような、それこそ儀礼的なことは不本意ですのですね。相手にしても、元旦には届かないけれど、出せば必ず応答があると感じて、出し続けてくれるのであればやりとりしますし、そうでないならどうぞ無理して出さなくてもいいですよの含みが伝わればそれでいいかなと。
こうしたことを続けているおかげで(?)数が大分集約されたので、その分、一通に手書きで認める内容が長くなる傾向になっています。これも、それはそれでいいかなと思っておりますよ。
ま、こうした対応は誰しもに向くものではないでしょうし、実際に「不義理なやつ!」と思われている嫌いもあるかもしれませんですが、年に一度、たった一巡の行ったり来たりであっても、「ああ、やりとりしているな」という実感もこれあり、メールなどとは異なるしみじみ感を抱いておるという次第。来たら出すというのが、どちらも待ちになる可能性が無いではないですが、本当に近況を知りたい、知らせたい相手ならば、年賀状に限らず手紙を認めてみるのはありだろうと思っておりますしね。