さてはて、偏西風に乗ったサン・ファン・バウティスタ号は(航海中はいろいろ大変なこともあったでしょうけれど)太平洋を横断、慶長遣欧使節の一行をメキシコのアカプルコ港へと上陸させるに至るのですな。
到着は1614年1月28日であったといいますから、およそ3カ月間の船旅の果て、スペイン人同行者はともかく、支倉ら侍たちは陸に降り立ってさぞほっとしたことでありましょう。
「アカプルコの港では、役人や貴族たちが出迎え、祝砲やラッパ・太鼓の華々しい音楽とともに使節を歓迎し」たそうですし、宿泊先に当てられたのは海岸近いサン・ディエゴ要塞の「王の館」と呼ばれる建物だったり、メキシコ副王から許可を得たという商人たちが早速に取引を求めてきたり。そんなこんなは使節一行に旅の目的完遂をいくらか楽観視させたかも。実際にそううまくはいかないのですけれどね。
アカプルコでの歓待ぶりはともかく、一行は先へ進まねばなりません。まずはメキシコ副王に直接会うため、陸路メキシコシティへ向かいますが、港町の開放感とは打って変わって異形の侍たちは驚いた人たちとの間ではトラブルも発生したとか。些か不穏な状況の中で、メキシコ副王に謁見叶うこととなりますが、ここで一行内での思惑違いを象徴する出来事が生じることに。展示解説にはこうありました。
支倉は副王に政宗の書状を私、メキシコ貿易や仙台領への宣教師の派遣を求めました。ソテロも家康の書状を渡しました。原文には「日本での布教は禁止」と書いてあったのですが、不都合だと考えたソテロは、翻訳したときに勝手に削ってしまいました。
だいたい、政宗は貿易実現への譲歩にもせよ、宣教師の派遣を求める文書を送っているも、家康の方は布教禁止と言っているわけで、それらを併せ持って船出してしまったこと自体、波乱含みでありますね。おそらく、おそらくは言葉のやりとりを自由にできるソテロがうまく収める(自分の都合に沿って?)とかなんとか請け合ってきていたのかもしれませんですねえ。
メキシコ側にしても、使節団の総勢180名ほどのうち「南蛮人40人ほど」を除いた日本人120名ほどの中で、メキシコシティの教会で洗礼を受けた者がおよそ80人もいた(支倉も希望していたようですが、ソテロがスペインに渡ってから洗礼を受けるよう助言したと)となれば、キリスト教に敵意がある国とは思えなかったことでしょう。
とまれ、都合4カ月余りに及んだメキシコ滞在の後、使節団は大西洋岸の港町べラクルスからスペイン艦隊に乗り込んでスペインへ。時に1614年5月8日でありました。ただ、このとき大西洋横断に赴いたのは一行のうち30人であったと。主に商人たちはメキシコに残されたということですが、侍たちは当然に海を渡って行ってしまうわけで、商人たちに不安はなかったのでしょうかね…(不安があっても、なんとかせい!だったでしょうか…)。
また、今さらながらに思い違いを正しておかねばなりませんが、サン・ファン・バウティスタ号はあくまで太平洋横断のために使用されましたので、そもアカプルコに留め置きだったようで。なんとなく、使節一行が陸路で大西洋岸に到達するまでの間に、サン・ファン・バウティスタ号がマゼラン海峡を抜けるなり、ホーン岬を回り込むなりして回航されていたようにも漠然と想像してましたが、さすがにそんなことは無かったわけですなあ。
ところで、この屏風のような形に見える解説パネルをご覧くださいまし。細かい文字はともかくも、世界地図と左右にある「この線なんだ?」が見えればそれで良しでありまして。
16世紀当時、世界には見えない2本の線がありました。1本目は、1494年にスペインとポルトガルが大西洋に引いた線で、線の東をポルトガル、西をスペインが支配することを決めたものです。(トルデシリャス条約)2本目は、アジアを支配するときに目安にした線で、1529年に引かれました。(サラゴサ条約)2つの条約は両国が独自に決めたものですが、カトリックが世界に広まることを期待したローマ教皇がこれを公認していました。
このあたりのことは昔、世界史の授業でやったことなのでしょうけれど、トルデシリャスはともかく、サラゴサ条約の方はとんと記憶に無いですなあ。さりながら、サラゴサ条約が締結された頃は、ルターによる宗教改革が進行中でしたでしょうから、ローマ教皇もカトリック一途のスペイン、ポルトガルの侵略政策に加担することにもなって、それがアジアにも及んでいたという理解を新たにしたものでありますよ。
でもって、サラゴサ条約ラインが奇しくも本州を縦断する形になっていたことが、日本にポルトガル船はもとよりスペイン船までもやってくることになったと。そして、南回り(西回り)航路がポルトガルの領分だったのに対して、東回り航路を自分のものと思っているスペインには、太平洋横断の直接貿易は望むところでもあったことになりましょうね。ただし、スペインにはローマ教会を背負っている意識がありますから、当然に交易と布教はセットという考えだったでしょうけれど。
とまあ、あれこれの思惑が錯綜する中、使節の一行はいよいよ大西洋を横断してスペインへ、ローマへ…と、話のスピードアップを目しておりながら、またしてもメキシコ滞在のところだけで長くなってしまいました(苦笑)。次回こそスペインから先の旅路のお話をとんとんと(笑)。