大阪・天満橋のところから大川に沿って遊歩道をゆらりと歩いてきたわけですが、川端に威容を誇る建物に釣られて、独立行政法人造幣局本局、要するに大阪造幣局に併設されている造幣博物館にお邪魔することに。こちらは造幣局の正門になりましょうかね。

 

 

博物館へは、この門の左側にある守衛所に立ち寄ってからということですが、中に入ると結構ふらふら歩いていて差支えないようですなあ。もちろん、正門奥に佇む本館らしき建物に近寄らなければでしょうけれどね。

 

 

博物館に至る道は、この建物を左手に回り込んだところをまっすぐ、つまりは大川に近い側を進んでいくのであると。もしかすると、このあたりがいわゆる「桜の通り抜け」で開放されるエリアなんでしょうか。ともあれ、歴史を背負っている施設なだけあって、この道々にもふと足を止めて「ふむふむ」なんつうものがあったりしましたですよ。

 

 

例えばこちらは「創業当時のガス燈」であると。博物館の展示を見る前でなんですが、解説にはこのようにありました。

造幣局では、構内にガス製造所を設けて、石炭ガスを製造し、それを燃料として明治4年(1871年)から局内の工場や宿舎付近の街路の照明に使用しました。…ここにある二基のガス燈は、日常使用された我が国最初のものといわれており、創業当時の玄関前にあったときの姿をとどめています。

造幣局、つまりは硬貨を造る場所にガス製造所?とは思うも、明治の近代化プロセスの最中にあっては、造幣という目的を達するために必要な工程の全てを自前で賄わなければならない。つまりは動力や灯りとして用いるための石炭ガス製造所が必要だったのであるかと。造船のために横須賀に設けられた施設も、横須賀製鉄所(目的は造船なのですが)と呼ばれていたのと同じような話でもあろうかと。

 

ちなみに、東京・銀座の通り沿いにガス灯が設けられたのは明治7年(1874年)ですので、それより3年も早く点った灯りは大阪の人たちをさぞびっくりさせたのではないでしょうかね。

 

 

で、お次は「創業当時の正門」であると。東京であれば、江戸東京たてもの園にでも移築されそうな建造物ですけれど、左右の詰所には軍から兵士が派遣されて警備に当たったそうな。何しろ造っているものがお金ですから、厳重警戒だったのでしょう。翻って、先ほど通り抜けた現在の守衛所のフレンドリーなこと。つくづく日本は平和というか、安全というか。よその国では町なかで銃を携えた武装兵士の姿を普通に見かけたりしますものねえ…。

 

 

この屋外展示されたレトロな機械は「創業期に使われていた圧印機」だそうな。圧印機とは聴き慣れない機械ですけれど、察するに原料の金属をプレスして、表裏にデザインを浮き上がらせるものということで、間違いはないでしょう、きっと。硬貨を均一に、そして大量に生産するのは必須の機械でしょうけれど、もちろん当時は外国から購入するとして、新品はどえらく高い。有名な貿易商グラバーを通じ、閉鎖状態にあったという香港造幣局の機械を入手できることなったというのが、この機械であると。

 

 

この購入交渉に尽力したのが五代友厚だった…というのですが、さすがにもういい加減、造幣博物館の館内展示でじっくりと説明を見ておきたいところですな。では館内へと歩を進めてまいりましょう。入口はこちらです(…といって、次回に続く)。