「将棋のまち」として知られる山形県の天童に来たからには寄っておいた方がよかろうなと、天童市将棋資料館を覗いたのでありますよ。「web観光てんどう」の紹介ページによりますと、いろいろな展示があるようですなあ。

天童市将棋資料館は、全国の将棋の9割以上を生産する将棋のまち天童のシンボルとして、1992年にオープンしました。小さな将棋駒には、大きな歴史とロマンと伝統と技術が息づいています。伝統の技と将棋のルーツ 将棋の歴史、天童がなぜ将棋駒のまちになったのか 人間将棋の開催 タイトル戦の歴史を学ぶことができる資料館です。

差し当たって「天童がなぜ将棋駒のまちになったのか」、このあたりを見ておきたいところでして、それは「天童将棋駒の始まり」のコーナーに。

 

天童の将棋駒づくりは、天保2年(1831)織田藩が高畠から天童へ移館するに伴ない、将棋駒の製作技術も一緒に導入されたのが始まりであると推定されています。織田藩の将棋駒づくりは、いつ頃から始められていたのかは不明ですが、少なくとも高畠時代(1767~1831)には行われていたようです。それが引き続き天童に移館しても続けられ、特に幕末の家老吉田大八(1832~1868)によって、武士の手内職として積極的に奨励され、今日の天童将棋の基礎が築かれたといわれています。

山形の地に封じられた織田家が高畠から天童に陣屋を移したあたり、先に訪ねた天童織田の里歴史館で見て来たとおりですが、将棋駒作りで後世に天童の名が知られるようになるのも家老・吉田大八のなせるところであったのですなあ。銅像が建てられるのも、さらになるほどです。が、ここで肝心なのは武士の「手内職」という点でありましょう。石高二万石の小藩では、抱えの武士たちも食っていくためには将棋駒づくりという手内職が必要だったわけで。しかも、それを家老が家中に奨励するとは、やはり藩全体が貧しかったのであろうと。

 

とはいえ、「武士は食わねど高楊枝」ではありませんが、なかなかに侍は見栄っ張りのようでして、こんな紹介もありましたですよ。

天童藩織田家で、下級の武士は生活のために、将棋駒づくりを内職とした。その内職をする家士でも「武家である」と、自立自尊心が強いから「自分で使うものは自分で作る」と体裁をつくろった。

この体裁は農民、町民に対するポーズだったかもですね。ですが、武士の間で将棋駒作りが奨励されていることは公然の秘密状態で、皆が知ってはいたでしょう。それだけに、見栄っ張りは下手なものは作れないと腕に磨きをかけたのでは。つまりは、侍の見栄が天皇の駒を有名にしたのかもしれませんですなあ。

 

 

というところで、展示の最初に戻ってみることに。まずは「将棋のルーツ」に触れる部分でして、長い長い歴史を遡って語り起こされておりましたですよ。

将棋は、突然作られたものではなく、盤上遊戯の長い歴史を経て誕生したものです。盤上遊戯の歴史は古く、もともと祭具や占いの道具であったものが長い年月の間に遊戯化し、ゲームになりました。古代において盤上遊戯が楽しまれたことは、古くエジプト、メソポタミア、インド、ギリシャなどの古代文明遺跡からもうかがい知ることができます。

 

こちらの「チャトランガ」という盤上遊戯は、紀元前300年頃の古代インド、ガンジス川上・中流域で楽しまれていたものということですが、これこそ将棋の原形であるらしい。なんでも最初の頃のチャトランガはサイコロを使って4人で遊ぶものだったものの、サイコロの使用は偶然性が高いことがゲームとしての欠点とされ、やがて一対一の盤上勝負になっていったとか。結局のところで、そんな古い段階で確立したことが、西へ伝わってチェスとなり、東へ伝わって将棋となっていったのであると。

 

で、大陸を東に伝わり日本へ…というルートは、他のさまざまな事物の伝来を考えても、中国から(朝鮮半島を経由して)伝わったのであろうと思うところですな。中国にも将棋はありますし。

 

 

とはいえ、中国将棋も日本の将棋も伝来当時のままではないにせよ、なかなかに似て非なるものでもあろうかと。展示解説にはこのような説明が記されておりました。

現在は、どちらかというと日本将棋と東南アジア将棋との類似点が指摘されるようになっています。日本の将棋は、中国から伝わる以前に、東南アジアから海上交通路により日本に入り、その後、中国将棋や朝鮮将棋の影響を受け原型が作られたという説が有力です。

文化伝来のルートがひとつではないと考えますと、これは何も将棋の話ばかりでなくして、他にもさまざま南方経由でたどりついたものがあろうなあと思うところです。昔々の人々が海を越えて行き来をしていたのは(縄文人が黒曜石を求めて伊豆諸島の神津島まで行っていたと話ではありませんが)よく知られるところですので、南方から島伝いに伝来した文化なども、実はいろいろあるのかもと改めて思うのでありますよ。

 

とまれ、日本にたどり着いた将棋(の原型)が今現在思い浮かべる将棋の形に収まるには結構時間が掛かり、「16世紀の後期と考えられている」のだそうな。それ以前に、使う駒の数(それに合わせて盤の桝目)の多寡によって「中将棋」「大将棋」「大大将棋」「摩訶大将棋」、そして最大のものは「秦将棋」なんつうものもあったということでして、「秦将棋」とはかように巨大なものだったらしいですよ。

 

 

昔のCMに「大きいことはいいことだぁ~♪」てなのがありましたですが、大きけりゃいいってもんでもなかろうに…と。だいたい、こんなにびっしりと駒が並んでいてどうやって動かすんですかねえ…などと思っていたら、解説に「実際に使われたかどうかは不明である」とは、取り敢えずおっきなのを作ってみましたというだけなのかもですなあ。

 

 

ま、日本においてさえ、種類がいろいろあったとなりますと、世界中にさまざまなタイプの将棋(に類する盤上遊戯)があるわけですね。類するものがあれこれ展示されておりましたけれど、バリエーションのひとつとしてこんなものが。本格将棋は敷居が高いものの、子供の頃にはこの「軍人将棋」でよく遊んだものでしたですよ。

 

 

1956年(昭和31年)には「もはや戦後ではない」と言われるようになりましたけれど、思い返すにやっぱり昭和はその後もしばらく戦後感はあったのだろうと。子供がこうした遊具で遊んでいたのですものね。

 

てな具合に将棋のそもそもを見てきたものの、天童の将棋駒づくりに関わる部分には未だ触れておらず…。次にはそのあたりを振り返っておかねば天童らしさが今一つのような気がしておりますよ。