京都・伏見の町なかを縫って、十石舟に揺られながら宇治川派川が宇治川と合流する(かつて合流していた)三栖閘門までたどり着きました。乗船場への戻り舟を待つ間、しばし上陸して辺りを見て回ったのでありますよ。堤防のすぐ上には三栖閘門資料館があるものですから、そちらを見学してお待ちくださいということなわけですが、小さな資料館とはいえ15分ほどでは時間が足りないですよねえ(とは、他の人たちはあまり思わないのであるか…?)。

 

 

ですので、館内の展示パネルをひたすら写真に残すことに努め、後からじっくり反芻することに。でもって、その後わずかに残った時間を利用して、気になる閘門の向こう側、そこには宇治川の流れが見えるはずですので、そちらの方へと向かった次第でありますよ。

 

 

まずもって、閘門の内側、濠川(琵琶湖疏水)の側を振り返ってみますとこんな具合でして、宇治川の方へ船を漕ぎだすにはこの水位を上げるか下げるかして、宇治川に合わせるというのが閘門の役割ですな。宇治川側のゲートに接近してみますと、これだけ水が満々とあるからには減水して宇治川に合わせることになるのが本来でありましょうかね。

 

 

ですが、これが宇治川の方へと廻り込んでみて「あららぁ~」ということに。あまりに宇治川が低いところを流れているではありませんか。

 

 

河原で重機が作業しているのは浚渫作業ですかね。ともあれ、河原の広さはかなりありますので、もっともっと多くの水量があったのでしょう。なにしろ、川の向こうに広がる平らな土地は今ではすっかり面影を失っているも、かつて巨椋池の水面が広がっていたわけですから、自ずとその水量を想像できるような気がするわけです。

 

 

今では三栖閘門のゲートの最下部に届かない水路(濠川の排水路でしょうかね)をたどってわずかな水が宇治川に流れ込んでいるのが見られるのみで、これではいかに閘門とはいえその機能を果たし得ない、なるほど開かずの閘門となって幾久しいとはなるほどなあと。

 

現在の宇治川の水量を決定づけたのは、上流に天ケ瀬ダムが造られたからのようでありますね。これほど水量を抑えめにするほどに宇治川、淀川流域の治水が必要だったということでもあろうかと思うと、開かずの閘門に残念とばかりも言っておれないでしょうなあ。

 

ということで現実を目の当たりにしたところで、三栖閘門資料館の展示で歴史のあたりを振り返ろうと思うわけですが、詳しい話はこの次に。ちなみにですけれど、琵琶湖を発して京都市街を潤してきた琵琶湖疏水はこの場所で宇治川に合流するのですよね。同じく琵琶湖から瀬田川として出た流れが名前を替えた宇治川ですので、琵琶湖の水どおしがここでまさかの?めぐり合いを遂げるという。25.1kmぶりの再会ということでありますよ。