まだまだ到着したばかりの伏見の町は基本的には碁盤の目ではあるも、昔ながらの路地は素直でないせいもあって、伏見十石舟の乗り場に辿りつくにはちょっとした戸惑いも。最終便が出航する時間が迫る中、少々慌て気味になりましたが、どうやらこの橋の下が桟橋であるようで。

 

 

NPO法人伏見観光協会では十石舟と三十石舟とを運行させておるようで、可能なればあの森の石松も乗ったであろう三十石舟に!と思うところではありましたが、差し当たり差し当たり三十石舟の方はイベント対応のみということで、おとなしく十石舟に乗せてもらうことにしたのでありますよ。

 

 

かつて河川港として栄えたという伏見。その始まりをちと振り返っておきましょうね。伏見観光協会HPにはこのようにあります。

かつて伏見は巨椋池という大きな池に囲まれた地域でした。その巨椋池から水路として宇治川を分離して整備し、港を設けたのは豊臣秀吉。天下統一を果たした秀吉が、その晩年に拠点となる城をつくろうと考えたことが始まりでした。築城に必要な材木や資材を運び込むためには、自然のままの川では荷の上げ下ろしも難しく、台風などの災害時にも大きな被害を出してしまいます。そこで文禄三年(一五九四年)、大規模な治水工事を行い、整備されたのが伏見港。秀吉は築城と同時に全国各地の有力大名に屋敷をつくらせ、商工業者を呼び寄せて都市としての基盤整備を行います。伏見は、京と大坂、そして全国各地をつなぐ港町として栄えていくようになるのです。

かような繁栄は兵どもが夢の跡…とばかり、伏見の水路(宇治川派川であると)は穏やかに涼やかな風が吹き抜けていく。そんな中を、水面にとっても近い舟が流されるように進んでいくのは、なんとも心地の良いものでありましたよ。

 

 

折々に、ちょいとヤンキー風のおじさん係員(伏見観光協会のボランティア・ガイドだったりするのですかね…)が説明をしてくれるのでして、「左手をご覧ください。坂本龍馬とお龍の像でございます」てなイメージで(こんな山田邦子風バスガイド的ではなかったですが)。

 

 

これを聞いて「ほお、伏見は龍馬と関係があったのか…」と、すぐにはピンと来ないところが幕末史に疎いことが知れようというものですけれど、幕末の伏見についてはこの後、日を改めて敢行した町なか散策でまとめて取り上げることにいたしましょうね。ともあれ、緑滴る中を十石舟は進んでいく…。

 

 

やがて水路はT字状に濠川と突き当たって合流、今度は濠川を下っていくのですけれど、琵琶湖疏水が京の町なかを通り過ぎて伏見に至るのが濠川なのであると。要するに舟は琵琶湖疏水の上を進んでおるのですなあ(個人的な盛り上がりポイントです、笑)。そして程なく、宇治川と注ぐところに設けられた閘門が見えてくるのでありますよ。二本の塔が並んで立っているところですね。

 

 

 

で、三栖閘門の中へと進んだ舟は、閘門の水深調節機能を活かしていよいよ宇治川へ…というのは捕らぬ狸の皮算用的想像でありまして、ひとめのゲートを潜った先には船着き場が設けられてあるのでありましたよ。

 

 

実は伏見十石舟の観光クルーズは、三栖閘門内が折り返し地点なのですなあ。乗って来た人たちが下船しますと、ひとつ前の舟で来た人たちが元の乗船場へ戻るべく舟に乗り込んでいく。下りた側は次の舟が迎えに来るまで、岸壁の上にある三栖閘門資料館などを見て待っててねという具合になります(乗って来た舟は最終便だったはずなのですが、そのあたりは取り敢えず…)。

 

宇治川へでは出られないのか…といささか残念さが募ったあまり、「この閘門は閉め切りなのですか?」と聞かずもがなの質問をしてしまい…。考えてみれば(考えるまでもなく)閘門内に船着き場が設けられてあるということは、水位の上下動が行われていようはずもないわけでして、どうやら「何十年も閉まったまま」ということであるもうひとつのゲートは「もう開くことはないけんね」とばかり、巌とした印象で目の前を堅く閉ざすべく立ちふさがっているのでありましたよ。

 

 

てなわけで戻り舟が来るまでの間、三栖閘門資料館を覗きつつ、この堅く閉ざされたゲートの向こうにある宇治川を望みにうろうろしたのですが、そのお話は次の機会ということで。