鹿児島県指宿市まで出向いて雨に祟られた一日。薩摩伝承館に続いて、何かしら屋内展示施設に立ち寄らんとして訪ねたのがこちら、「時遊館COCCOはしむれ」でありました。要するに、指宿市考古博物館なのですけれどね。

 

 

とはいえ、3月半ばの出発直前にNHK『ブラタモリ』の「鹿児島・指宿〜指宿のわっぜぇ火山は歴史を動かす!?〜」を見ていなかったら、おそらくはスルーしていたでしょうけれど。

 

 

番組の中で「火山灰が決め手となった歴史上の大発見とは?」として触れられていた橋牟礼川遺跡は、この博物館のすぐ近くにあるのですが、その大発見というのを同館HPの紹介から引いておきましょうね。

「日本近代考古学の父」と評された京都帝国大学の浜田耕作博士は、橋牟礼川遺跡(当時は指宿遺跡)から縄文土器と弥生土器が一緒に拾われたことを知り、大正7、8年に発掘調査を行いました。
当時、2つの土器の違いは、使っていた民族が違うからだという説がありましたが、この調査によって、開聞岳の火山灰の下から縄文土器が、上から弥生土器が出土することが明らかになり、2つの土器の違いは、時代差によるものであることが証明されたのです。
この発見によって、橋牟礼川遺跡は国指定史跡に指定されました。

今でこそ、先行する縄文時代に縄文土器があり、その後の弥生時代には弥生土器があり…ということを当然のように受け止めているわけながら、そうと知れたのはほんの100年余り前のことだったのですなあ。

 

 

で、橋牟礼川遺跡には世紀の発見に至った地層も屋外展示状態になっているとなれば、そそられるところですけれど、あいにくの雨模様で遺跡自体に近寄ることはありませなんだ。その代わりに博物館内をつぶさに見て回るということにしたわけで。

 

 

ところで、入口のところにやおら色鮮やかな文様が見えておりますけれど、これは古代に南九州に住まっていた人たちが使っていた(であろう?)ものであるようで。「隼人(ハヤト)」と呼ばれる人々については、同館配付の資料にはこうあります。

7世紀の終わりごろ(682年)から9世紀の初め(805年)にかけて、南九州の人々は、当時の中央政府から「隼人」と呼ばれていました。律令制度を整え、国づくりを進める政府と「隼人」とは、度々対立したとの記録が残されていますが、「隼人」の暮しぶりや文化を伝える記録は少なく、その実態は謎につつまれています。橋牟礼川遺跡では、5世紀~7世紀ごろの村と奈良~平安時代の村が見つかっているため、「隼人」の生活・文化を知るたくさんの手がかりがうもれていると考えられています。

南九州はこれまでに巨大な火山活動が何度もあったこと(例えば姶良カルデラとか)がよく知られておりますけれど、橋牟礼川遺跡を火山灰が覆い尽くしたのは平安時代の貞観十六年(西暦874年)だそうな。『日本三代実録』に記載があることから3月25日という日付まで分かっているそうですけれど、これは今でこそ円錐形の優美な姿を海岸線からすらりと立ちのぼらせる開聞岳の噴火によるものなのですなあ。

 

 

桜島のように普段から噴煙を上げていたりはしませんけれど、開聞岳も歴とした活火山であると。何度も噴火を繰り返してきた証はその山容にも示されているということなのですね。上の展示パネルの写真は至って判りやすいですが、右側斜面に少々ぷっくりしている部分がありましょう。かつて開聞岳はこの部分までの高さであったようで。ですから形としては台形のように平たく見える山頂部があったというのですな。そこに後から溶岩ドームのようなものが隆起して今の形になったのである、とは『ブラタモリ』でも触れていましたっけ。

 

展示の中で面白いなと思いましたのは、古代人の食に迫るコーナーでしょうか。あちこちの考古博物館などでも、縄文人や弥生人が食料としたものを紹介していることはありますが、グルメ対決のように展示するケースはなかったような。縄文人と弥生人がテーブルに向かいあって、それぞれ自慢の食べ物を自慢しあっているとか?

 

 

なんとなく想像は付きましょうけれど、左が狩猟採集系の食材が並ぶ縄文代表、右が農耕系の弥生代表でありまして、それぞれのメニュー、お品書きはこんなふうです。

 

 

長い歴史の上で「米は日本人の主食」となっていったわけですけれど、これは米の収穫倍率がいい(一粒から10倍以上の収穫)。つまりは安定した食料たりうるということが先にあったのではなかろうかと思うところです。うまい、まずいは当初二の次で。ただ、どうせ食すならうまいものと、品種改良も進んでいったのでしょうなあ。一方で、縄文の方では穀物が無い(農耕が全く行われていなかったとは言い切れないわけですが)代わりにドングリなどの木の実がたくさん。そこで、展示解説には「おいしいドングリの食べ方」が紹介されていたりして。

 

 

これを見て実際に調理してみるかといえば、敢えて取り組まず…になるわけですが、やはり解説には「縄文・弥生の調理法」を概観した紹介がありましたので、ちと長いですがここに引いておこうかと。

縄文時代には、木の実や肉・魚などを「焼く」「煮る」(土器を利用)、「蒸す」(葉っぱに包んだ食材を焼いた石にのせる)「燻す」(穴の中で火をたき煙で燻し燻製を作る)といった調理法があったことがわかっています。弥生時代になると、米や雑穀を土器で炊き、雑炊のように食べていたほか、土器の吹きこぼれの痕跡から、余分な水分を捨てて蒸らす調理法が加わります。
では味付けはというと、現在の和食に欠かせない醤油や味噌の原型が誕生するのは奈良時代。縄文時代や弥生時代は、海水から作った塩が主な調味料だったことでしょう。そのほか、果実やハチミツで甘味をつけていたと考えられます。

焼く、煮る、蒸すといった基本的な調理方法は今でもさほど変わるでないような。食材には移り変わりはあるも、最も変化したのは味の付け加え方、調味料でしょうかね。よりおいしくといった、人間の飽くなき追及の賜物でもありましょうけれど、それとは異なる素朴な味わいを楽しんでいた(であろう)縄文や弥生の人々。博物館周辺は広がりあるなだらかな傾斜地でして、ここには古代にたくさんの人たちが住まった集落があった、それがポンペイのように火山噴火に飲み込まれてしまった。そんなことが想像できる土地なのでありましたよ。