群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳を訪ねて、この円筒埴輪がぐるり囲んだ後円部の墳丘直下、東国の王が眠った石室のようすが見られるので、写真左側のいかにもな人工物に見える階段を下りて行って…というところまで話は進んでおりましたですね。で、やおらですが、石室内のようすをご覧いただこうかと。

 

 

大きな石棺が見えますが、刳り貫かれた内部の長辺205cmということですので、東国の王がそれほどに長身だったとは思いませんですが、石棺自体は国内でも大きな方ということのようで。内面は本来赤く塗られていて、これは魔除けの意であるそうな。出土時の再現であるのか、蓋の一部は少し離れた右手奥に見えていますが、これはいつの時代か、割られて盗掘されてしまった結果であるとか。

 

ですので、石棺の中からは小さな玉が残されている程度だったようですけれど、蓋が開いた側のすぐ右手には副葬品室という穴が設けられておりまして、ここからは「鉄製の農工具のミニチュア」が発見されたそうなのですね。農工具?ミニチュア?と、なんとも地味な印象ながら、解説に曰く「貴重な鉄を独占した王の祭祀用具」と言われれば、農耕という富の源泉を弥増すために必要な鉄だけに「なるほどねえ」と。

 

 

ところで、棺そのものに目を向けてみますと、その形状から「舟形石棺」ということが分かるようですな。丸みを帯びた突起が短辺に一カ所と長辺に二カ所、設けられているのが特徴ということで。

 

 

形は違えどどのタイプの石棺にも突起が付いていますけれど、どうやら「縄掛突起」と言われるように、重い石棺に縄を掛けて運び込んだりする実用的なもののようで。「装飾も兼ねていたようだ」とは解説されておりましたですが、舟形石棺についてはこのような説明もありましたですよ。

舟形石棺は、ヤマトの大豪族が使った長持形石棺に次ぐ格式の棺である。北部九州や吉備(岡山県)、越前(福井県東部)、上毛野(群馬県)等に偏って分布し、ヤマトに次ぐ有力な地域の豪族が用いた棺といえるだろう。

 

とまあ、そもそも前方後円墳という形からして「ヤマト王権とつながりがある、有力な人物だけがつくることのできた墓」であり、石棺もまた格式のあるものだったりする。こうしたことから古墳時代の上毛野が東国にあってヤマト中央とのつながり深い要衝であったと語られますけれど、被葬者は東国の王というばかりで詳しいことは分からないのですよね。

 

このあたり、歴史ロマンを語るにしても、近畿地方にある古墳が歴史の教科書にも登場するような人物の墓かも?と言われるの比べて、いささか見劣りするところなのかも。ただ、榛名山の大爆発によって、大地はすっかり火山灰に封じ込められたということですので、まだまだこの辺りで思わぬ発見があるかもしれませんですね。それこそ、『日本書紀』などの記載から上毛野氏の祖と言われたりする豊城入彦命(崇神天皇皇子)やその子息で初代の上毛野国造とされる彦狭島王などに関わる何かしらが出て来たりするやも…となれば、これまたやはり歴史ロマンではありましょうかね。