さてと伝鎌倉街道の切通を北へ抜けますと、木立はなくってあっという間に住宅地、やおら俗世間に復帰となりましす。さらにその先、まっすぐに進みますとJR西国分寺駅にゴール!となるわけですが、その住宅地に出てほどなくの公園でかようなものが目に留まったのでありまして。

 

 

公園と道路の仕切り的に設けられているこの形状は「勾玉なのではないかね」と思いついたのですなあ。つうことはこの園地、もしかしてただならぬ公園なのでは?!と思い、探索を開始。園内で遊んでいたおばあちゃんと孫、はたまた体操にも来ていたのか、ご近所のおじいさんらしき人たちに、不審者目線が投げかけられたりしたものの、すみっこの方にこのような解説板を発見したのでありましたよ。

 

 

「4000年前の武蔵台2丁目29番地(縄文時代のムラ)」とあります。周りを見れば家ばかりというその場所は、解説板が示すとおりに「4000年前も住宅地だった!」のですなあ。

 

解説に曰く「縄文時代の竪穴住居跡は地面を掘り込んだだけの作り方が多い」ところながら、この遺跡では「柄鏡形敷石住居跡」(約4000年前の縄文中期のもので、関東から中部地方に多く見つかるらしい)も発見されたということなのですね。「床に数多くの川原石が平らに敷かれ」、「円形部分の中央には炉が作られ」ていたということでありますよ。基本的に遺跡は発掘後に埋め戻されたのでしょうけれど、この敷石住居跡は発掘時の状態で移設したというのが、こちらです。

 

 

この遺跡では、竪穴住居跡の方は80軒ほど確認されたそうですが、この柄鏡型という、のちの帆立貝型古墳というか、前方後円墳というか、そうした形をも想像させるところでして、思い浮かぶのは祭祀の場でもあったろうかと。集落民の集う特別な目的のある建物だったのかもしれませんですね。

 

ところで、この遺跡に出くわしたその場では、ここにたどりつく以前にへ武蔵国分寺跡を巡ってきたことから、天平時代に国府や国分寺が置かれた地域なるも縄文時代にもヒトは住まっていたのであると思ったり。さりながら、よおく考えてみますと、むしろ縄文の頃の方が先ですので、その頃からヒトが集住するに足る場所だったと考える方が自然であるかと思い直した次第でありますよ。

 

縄文の人々にとっては、生きるための糧、自然の恵みが豊富で得やすい場所というのが考慮されるべきポイントだったでしょうけれど、自然の恵みが豊かであるということは即ち森羅万象への祈りにも通ずることになりましょう。そうした古くからのパワースポット的な思いが連綿と受け継がれて、国府や国分寺をこのあたりにと、後の人たちは考えたのかもしれませんなあ。

 

ま、このあたりの縄文遺跡はこの場所ばかりではないでしょうけれど、そんなふうにヒトの営みは続いているものと思えたところで、ぶらり武蔵国分寺散歩を終えるのでありました。おあとがよろしいようで…。