この2021年6月に新規オープンした八王子博物館を訪ねて、
いささか規模の小さいところから、どうも思惑違いの感を醸してしまいましたですが、
やはり施設として新しくきれいで、展示にそれなりの工夫もあるとはいえましょう。
取り分け八王子車人形を紹介し、人形遣いを体験できるコーナーなどは
以前の郷土資料館にも存在はしていたものの、古びて暗めの空間の中にあって
その気にさせられないものではありましたが、新しくなってフローリングのぴかぴか舞台となりますと、
「どれどれ」と上がって見たくもなるところかと。もっともコロナ下にあって、体験は休止中でしたけれど。
ところでその八王子車人形、かねがね実演で見たいものだと思いつつも、
国立文楽劇場のような常打ち小屋があるでなし、どうにも機会を捕まえられずにおりましたが、
取り敢えずは体験コーナーの壁面備え付けの大型モニターで、3つのビデオ上映を全て鑑賞、
ふむふむと思ったものなのでありましたよ。
さて、そも八王子車人形とは…ですけれど、文楽人形は一般的に三人遣いであるところながら、
一人遣いで演じられる、それもろくろ車と言われる箱に座って演じるという点が特徴でありますな。
なんでも人形芝居を上演するのに人手も少なく、上演場所も広く立派なところは叶わずという制約の中、
独自に生み出されたものであるようですな。
人形の足裏にある突起を足の指で挟んで人形の脚の動きを表現するのでして、
遣い手の脚そのもので操ることから、少なくともその部分に関しては文楽人形の脚運びよりも
いかにも歩いている感を出せたりするようでありますよ。
一方、上体の方は遣い手の二本の腕で、人形の両手と頭、そして表情までも操ることになりますので、
こちらは大層忙しい。なかなかに文楽のような細やかさには至らないかもしれませんですが、
ビデオで見る限り、長年の工夫の成果は伝承されておるような。
ただ、上から垂らした糸で動かすような操り人形ではなくして、
基本的に一人が一体の人形を、その裏側で操るということを考えてみると、
なんだかそのまんま人が演じてしまった方が早い、当然にして表情豊かな表現もできましょうしと、
そんな思いも過ぎったものなのでありまして。そう考えると、今さらながら「なぜ人形で?」とも思ったり。
言うまでなく「人形」は人の姿を象ったものであって、いわば人そのものの身代わり的な意味合いも込め、
祭祀などに使われたりもする一方で、玩具、と言う以上に友だち代わりとなってきたことには
長い長い歴史がありましょうね。それこそ土偶や埴輪の時代も含めて。
そんな中で人形遊びは子供のものと思いがちなところながら、
人形にあたかも人のような動きを与えたといった思いは、洋の東西を問わず、あったことでしょう。
ピグマリオンもそうした思いの延長でしょうし、近代ですけどピノッキオは正しくでもあろうかと。
ですが、吊り糸による操り人形は欧州で長い歴史を刻むわけですが、
あたかも人であるかのような動きを表現しようとしたときに、糸で操る方法には限界がありますから、
人形の頭や手足を人が動かそうと考えに至るのは不思議ではないかも。
人が直接に動かす以上、これに使う人形はある程度の大きさになりましょう。
また、その大きさは見せる場所の大きさ(人気を呼べば当然に広い場所になるはすで)とも
関わってきたように思うところです。
でもって、文楽人形などは他のいわゆる人形よりも大きくなったのではと思ったりするところですが、
そうは言ってもこれ以上人形を大きくする、例えば人の等身大にしてしまうということがあったかどうか。
もしそうなったらば、絶対に人間が演じた方が手っ取り早いとなりましょうしね。
「なぜ人形で?」とは今ある大きさを見て思うところであって、そもそも小さい人形を動かすところから始まって、
その後「そんなら人がやればいい」ということに思い至ってしまう、そのぎりぎりのところ?に到達したのが
文楽人形くらいの大きさだったのでもあろうかと。ですからひとつの完成形なのでしょうなあ。
ともすると、人が演じるよりも情感に訴えるような動きを見せる人形の芝居。
結局は人が演じて、演じさせているわけですけれど、直接に人が演じる芝居の見どころとは
またひと味違う見どころを持つものとして大成したのでありましょうかね。
そこではもはや「なぜ人形で?」とは愚問の至りだったかもしれませんですな…。
それだけに、やはり機会があったら一度は実演で見たい八王子車人形なのでありました。