もう7年も前のことになりますか、熊本に出かけた折り、

貸自転車で市内を走り回って、夏目漱石小泉八雲の旧居を訪ねていたその昼飯どき、

夜は居酒屋であろうお店にランチで入ったことがありました。

 

最初は一人きりだったのですけれど、ほどなく若者の男女ひと組が入ってきて、

やはりランチを食しておりましたですが、やがて男性の方がお店の人に

「どこか観光するところはありますか」と尋ねたのですなあ。

 

思いもかけない質問が飛び出したことに、傍らで聴いていただけながらびっくりしてしまったのでして、

なんとなれば「どんなところを見ようとかいうこともなく、彼らは熊本まで来たのであるか…」と。

 

これに対して、お店の人は「まあ、熊本城でしょうか。後は足を延ばせば阿蘇とか…」と遠慮がちに。

つい耳に入ってしまったこちらの方にもまたびっくり。「熊本の見どころ、それだけ?」と。

 

とまれ、何を見るという、何をするというあてもなく熊本まで来た方々に驚かされたわけですけれど、

今となってはそちらの方こそ「旅」なのでもあるかなあと思えたりもしているのでありますよ。

 

と、やおらそんなことを思い出しましたのも、手に取った本を読みながらのことでして。

松浦寿輝(この人、詩人で小説家で東大名誉教授らしいですが、全く知りませんでした…)の

「わたしが行ったさびしい町」という一冊。ただ、さびしい町と聞いて熊本を思い出したわけではありませんが。

 

 

そも、著者にとっての「さびしい町」といいますのは、こんなふうであるようで。

…さびしい町というのは結局、どうということもないふつうの町のことらしいと改めて思い当たる。逆に言うなら、ふつうの町はどれもこれも多かれ少なかれさびしいもので、それはこのうつし世での生それじたいが本質的にさびしいからだろう。

このあたり、おしまいの方の一編になって「果たしてふつうとは…」といったことに還ってきて

「変哲もない」ことという言葉が出てくるわけですが、ともあれ、何とも詩人らしい表現のしようでもあるかなとも。

 

こうした思いによれば、「上野」も「パリ十五区」も「中軽井沢」も皆、さびしい町として挙がってくるわけですが、

著者なりの思いに接してみれば、なるほどなと思ったりもするわけですね。

取り分け、「パリが?」とか「軽井沢が?」とも思ったりするのは一様にイメージのしばりがあるわけで、

ことさらにパリの「十五区」、そして軽井沢でなくして「中軽井沢」として見れば、なるほどでもあるのですな。

 

取り上げられた町々には、そこが目的地であった場合もあれば、

どこかしら目的地に向かう途中の、いわば行きずりの町の場合もあるわけですが、

どうもし目的地といってもその場での思い付きだったりすることが多くあり、

「ここに行って何を見る」みたいなものが無い中で動き出している気配があるのですよね。

 

いわば、これが実は「旅」だったりするのでは…というところで、冒頭部分にいささかつながるものと思います。

要するに「旅」そのものが目的であるか、「何かをみたい、何かをしたい」が目的の移動を旅を呼んでいるか、

このあたりの違いに思いを巡らしたりするところなのでありますよ。

 

考えて見れば、自らはおよそ後者であったなということに思い至る。

なんとなれば、限られた(休暇の)日数で出かけるからには「あれもこれも」と身構えて出かけていたわけで。

それを「旅」であるかのように語りもしていますけれど、これはむしろ「物見遊山」と言うべきでもあろうかと。

 

それでも昔、移動が徒歩であった時代などでは物見遊山もそのプロセスである移動に

かなりの時間を要していたでしょうから、そのプロセスをして旅であるとも言えたでしょうけれど、

今は目的のある場所にいかに速くたどり着くかを考えたとき、それ相応の移動手段がありますから、

かつて旅とも思えたプロセスを端折っていたりもするのですよね。

 

だからといって、「旅」が高尚で、「物見遊山」が俗とまで言うつもりは毛頭ありませんけれど、

一緒くたにしてしまうと、「旅」のニュアンスが変わってしってしまうのかも。

 

簡単に言うと、寅さんの旅は正しく「旅」であるように思うわけですが、

そうした旅のありようがいささか現実離れしているようにも思える、

つまりはそれほどに時間に縛られているようなご時世なればこそ、

旅のありようを考えることがあってもいいのではなかろうと思ったものなのでありました。