何度か書いているとは思いますが、語学学習アプリの「Memrise」をこつこつとやり続けておりまして。
一日30分くらい、単語と短いフレーズの記憶力チェック程度ですけれど、
この時間の中にオランダ語、フランス語、ドイツ語、ロシア語と4か国語も盛り込んでいるとなれば、
さてはて身に付くところまで行っていくとは到底思われず…(苦笑)。
それにしても、我がことながら何だって4つも一度にやっておるのかと。
それぞれに該当国に出かけるというタイミングで始めたものですが、
(ちなみにフランスには再訪の機会を探っていた段階でコロナが到来してしまいました)
やめると間違いなく忘れるだろうと思うと、なんとなくやめられない。まあ、一日30分ですからねえ。
それでも何年も続けておりますと、いちばん縁遠いフランス語でさえ、
フランス映画の中に出てくる単語を聴きとることができて「おお!」と思ったり。
そんなこともやめられない要因のひとつでありましょう。
といっていずれの言葉にしても所詮は単語・短文の記憶ですので、
会話ができるようになるてなことには至るまいと思っているわけですが、
たまたま、英語堪能として知られる小林克也が今現在、東京新聞夕刊に連載中の自伝コラムを見ますと、
耳学問も極めれば、ああなるのだなあとは思わせられたものでありまして。
もちろん、耳から入ったものを口からアウトプットすることも必要なわけですが。
ともあれ、そこには「ちょいと海外旅行に出かけるから…」程度ではない強い動機付けがあってこそ
努力が続けられるのでしょうから、なまなかにいくものではなわけですねえ。
そんな強い動機付けというのはひとそれぞれでしょうけれど、こういうこともあるか…と思いましたのは
『べつの言葉で』というタイトルのエッセイ集を読んだところからでありました。
作者はベンガル人の両親の下、ロンドンで生まれてアメリカで育ち、
家の中ではベンガル語、外では英語の使用を常としてアメリカで大学院を修了した後、
英語で小説を書くようになったジュンパ・ラヒリという小説家でして、
デビュー作を含む短編集がいきなりピュリッツァー賞を受賞して、
あれよと言う間に有名作家になってしまったという人であるとか。
小説には接したことがなかったですが、長編第一作を映画化した「その名にちなんで」は見ておりましたので、
「ああ、あの原作者なのだあね」と思い至ったような次第です。
が、それはともかく英語で小説を書くことで功成り名遂げた存在となったジュンパ・ラヒリですけれど、
英語がいわゆる母語であるとも割り切りにくく、かといってベンガル語は決して堪能ではない中に
第三の言語を置くことによって、常にある英語VS.ベンガル語といった対比の構図ではなしに
トライアングルのせめぎ合いに落ち着かせることができる、そんなふうにも考えたようなのですね。
まあ、このこと自体は後から思えばということかもしれないところでして、
まずはイタリア語に魅入られたことこそが先にあったとは言えましょう。
どうやらその音楽的な響きに絡めとられてしまったようで。
しばらくはアメリカに住まいつつ、イタリア語のレッスンなどを受けていたようですけれど、
思い余ってイタリアへの移住を思い立つ。ここで夫も子どもたちも道連れ…とは、そう簡単な話ではないですよね。
ですが、そこまで突き動かされた背景には、イタリア語で作品を書くという壮大な?構想があったからでもあり。
外国語の習得において会話というのは、目の前に(今ではオンラインもありましょうけれど)人がいて、
言葉のやり取りに即応しなければならない大変さがありますけれど、文章を書く、
それも出版前提の作品をとなれば、簡単なはずもないですよね。
何しろ、その言葉を母語とする人たちの目に触れて、単に意味が通るというだけはなくして
不自然さが無い、つまり何年も何十年もその言葉を使ってきている人たちにとって自然に受け止められるような、
そんな文章でなくてはならないのですから。
ちなみにこの『べつの言葉で』というエッセイ集は、ラヒリとイタリア語との関わりについての話から
イタリア語の文章と格闘するようすなどが綴られる一方、この作品自体がイタリア語で書かれ、出版された作品、
なんとも実験的な著作物ではありませんか。
あいにくと日本語訳で読む場合には、イタリア語としてのこなれ具合やその変化を
つぶさに読み取れるようにはなりえないわけですが、脇道ながら外国語に取り組むことに考えを巡らす、
そのあたりの妙味もあったようには思うところです。
改めて我が身を翻ってみますれば、冒頭に記しましたようにあれこれとちょっかいを出すばかりですので、
自ずとレベルは窺い知れましょう。強い動機付けとは、おそらく作り出すのではなくして、湧き起こるものながら、
何ごとにも中途半端に生きている者にはいくら待っても湧いてくることはないでしょうなあ。
まあ、マルチリンガルを目指しているわけではなし…と、この安直さは今さら変わるところはないでしょうね(笑)。